平成20〜29年度・中部支部総会での講演内容の要旨

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平成29年7月1日(土)に行われました中部支部総会において、工業会本部よりの来賓として國武先生(物質生命化学科 教授)と桂先生(建築学科 准教授)にご参加いただきました。 両先生の講演内容につきまして以下にその概要を掲載させて頂きます。

尚、渡辺幸任様(昭和47年・合成化学卒業)にお願いした卒業生特別講演の内容に関しましては、録音手法の不手際により、「文字おこし」に失敗しました。 従って、渡辺様よりご提供いただいた講演資料(pdf)のみの掲載とさせていただきます。悪しからず、ご了解ください。

平成20年度〜平成28年度の中部支部総会において行われた各講演内容につきましても併せて掲載してあります。
平成19年度の講演内容につきましてはこちら、平成19年度総会講演会要旨(篠原様、新井様他)をご覧ください。

    
熊本大学工業会・平成20年〜29年度の各講演の要旨
桂先生の講演要旨(H29) 國武先生の講演要旨(H29) 渡辺様の講演要旨(H29)
宇佐川工学部長の講演要旨(H28) 豊島様の講演要旨(H27) 江端先生の講演要旨(H26) /金原様の講演要旨(H26)
阿比留様の講演要旨(H25) 山尾教授の講演要旨(H24)/ 増田様の講演要旨(H24) 栗原教授の講演要旨(H23)/ 古寺様の講演要旨(H23)
松島教授の講演要旨(H22)/ 中西教授の講演要旨(H22)浦川様の講演要旨(H22)岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21) 岡部先生の講演要旨(H20)  宇対瀬様の講演要旨(H20)


  • 【平成29年度】桂 英昭先生の講演『アラウンド熊本大学工学部』の要旨


    本田支部長有難うございました。
    引き続きまして、来賓のおひとりであらせられます桂准教授様からご挨拶及びご特別講演をして頂きます。
    題目は「アラウンド熊本大学工学部」とお聞きしております。それでは、桂准教授様ご登壇ください。

    【以下、桂先生の講演内容】
    今日は、建築学科の桂と申します。
    今年で私は定年になります。あまりこういう場に出て来ることはないのですが、このたび丁度、機会を頂きましたので少しお話をさせて頂きます。
    桂先生 後で國武先生の方からもお話があるとおもいますが、120周年記念式典が有りますので、是非皆様にも来て頂きたいと思いまして、工学部から色々と呼びかけを行っておりますので、宜しくお願いします。
    私の専門は建築ですので、一寸ビジュアルに色々な建築物を含め、熊本の被災の状況も含めて報告させて頂きたいと思います。
    「アラウンド」と言うのは、工学部周辺の紹介と言う意味です。
    これ(プロジェクタースクリーン;著作権の関係で省略)が最近の熊大工学部の風景です。白川の対岸の方から撮っています。白川側に近づくほど、マグネシウム実験棟など、より新しい建物が建てられています。
    熊本の現状につきお見せしたいと思います

    これは被災直後の熊本城の様子です。この写真からは余り被害状況が見えませんが、実際は、城全体が被災のダメージを受けています。テレビで放映される以外にも、このように城壁が崩れています。長塀も殆ど倒れています。原則、中には入れませんが、このあいだ偶々、中に入って調査する機会が有りました。その時の様子、即ち直近の様子がこれです。
    お城の上部の天守閣の部分は、全部取っ払いました。実は、天守閣の下の部分はコンクリート製ですが、その中の鉄骨の部分がかなりやられましたので、全部撤去する事になりました。
    これは反対側から撮った写真ですが、このような状態をどのように復旧するかと言う事で、市の方ではできるだけネットで修復部を覆うなど、「見える可」を意識した工事の進め方を考えているようです。
    これは、石垣のモルタル吹付で固めてあった部分ですが、全て崩れてしまいました。従って、テレビで放映されるときは、ものすごく悲惨な状態に写しだされてしまいました。
    テレビで頻繁に放映される、鉄のアームで支えられた飯田丸櫓の映像は皆さんはご存知かとおもいますが、他の積石も隅だけを残して崩れかけています。
    また他の所も、孕んでおりまして石垣も殆ど危険な状態です。
    崩れ落ちた石垣は、全部このように番号を付けて並べ置かれます。後どうするかと言うと、熊大の多くの方々が関係していますが、先日、国武先生の化学系OBで凸版印刷にお勤めの佐藤さんと言う方がお見えになりました。
    ドローンで石垣の写真を撮りまして、そのデータを活用して石垣を1個づつ認識して行きまして、後で復元する時、本来の石垣の位置を特定するのに役立てようと言う試みがなされています。
    この映像は、テレビで放映され有名になった角の石垣が一本の状態になり鉄のアームで支えられている飯田間櫓の裏側の写真です。鉄のアームを裏側から見ています。今後は崩れた石を一個ずつ特定して、石垣修復時には全ての石を元通りの位置に復元する予定になっています。
    これは、震源地付近の益城町の状況が今どのようになっているかを映したものです。これは被災直後の状態です。
    写真は熊本県からご提供頂きました。
    今ちょうど、補助金がおり始めましたので、倒壊した家屋は全て撤去を進めている所です。

    これは子飼(こかい)商店街の中の様子です。今なお、被災の爪痕が残っている所があります。 我々の工学部資料館も大きなダメージを受けました。従いまして、改修も大々的に行う必要があります。恐らく、全体に鉄骨をかけて外側や屋根をやり直して、その鉄骨を利用して、内部は恐らく煉瓦だけでは強度が持たないと思われますので、補強が行われるような構造になるのではないかと思われます。
    それから、1号館ですが、震災前には土木と我々建築系、及び事務が入っていましたが、ついに使用できなくなってしまいました。我々は、今、プレハブ校舎に移っています。ですから、仮囲いを始めて解体作業に着手している所です。
    これが私の部屋です(笑)。(2016年4月)16日に被災して、17日朝の様子です。もしこの時ここに居たならば、多分、死んでいたと思います。2回目の震度7の地震が来たのは、真夜中の1時26分ころでしたが、もしも昼間にきていたら我々も学生達も多分死んでいた事でしょう。昔の資源工学科の建物があった場所は、駐車場になっていましたが、そこにプレハブを建てて、土木と建築、そして両サイドに事務が入っています。

    今年の建築学科の卒業生はどういう感じかと言うのがこの図です。黒色が男子学生、色が塗ってある部分が女子学生です。女子学生も3割位います。これは留学生です。最近は茶髪が減りました。最近は結構、黒髪が増えました。
    これは昭和27年度のデータですが、國武先生の物質生命科学系の女子学生の比率が高くなっています。
    女子学生の割合は、多い学部では大体3割くらいですが、最近では徐々に割合も上がって来ていますし、それに伴い、存在感も増しています。
    また、学部の改組がありました。後で、國武先生の方からもお話があるかと思いますが、一応全国22の研究拠点大学の一つに選ばれています。スーパーグローバルと言う事で、国際化を進めようと言う動きもあります。 組織化の動きもますます複雑になって来ています。それにつれて、トップダウンの管理体制も進んでいます。様々な機構が出来て来まして、学長の下に一本化されるような仕組みがだんだん強くなって来ています。
    また、来年から改組がいよいよ実施段階に入ります。
    土木建築学科、機械システム工学科、情報電気工学科、材料応用化学科と言う名前に変わります。
    これに、「グローバルリーダーコース」と言いまして、学部に関係なく一括して採った学生が3年生になり、再び学科に戻ると言う仕組みもあります。
    この図が、工学部の学科の変遷を表したものですが、よく見ると、ほぼ4年ごとに学科名称の変更等が行われているようです。
    グローバルリーダコースの教育内容は、2年生までは語学等をメーンに学習してくる学生が、3年生になって、専門の教育に分かれていくと言うのがその仕組みです。
    建物は、ご存じでしょうか?昔の教養部棟の前に建っていました第二学館という建物です。生協では有りません。それをリノベーションしまして、そこでグローバルリーダーコースの学生達の教育を行います。
    また、(平成)30年度から従来の前期・後期(2学期)制度からククォーター(4学期)制度に代わります。
    これも、国際化の一環で外国から学生を受け入れる場合、従来の前期・後期制度では外国の教育制度(卒業時期)との整合化がうまく行きませんので、考えられた事です。
    今、教養部では地震からの復興工事中でして、ネットを張って改修工事が進んでいます。
    以下おまけですが、龍神橋と明午(めいご)橋の架け替えがおこなわれています。子飼橋はちょっと前に架け替えが終了しました。
    昨日(6/30)も、一寸、本田支部長とお話する機会が有りまして、竜神橋食堂の事が話題になりました。立ち退き交渉で頑張ったので橋が斜めになったという本当かどうかわからない話もあります(笑)。以前の場所では無く、昔工友寮敷地が有った場所に橋脚を設置する形で工事を進めています。
    子飼商店街にありました「マルショク子飼店」も被災しましたので、以前の3階建てから平屋の食品販売のみの形で営業を再開したそうです(H29/ 5月)。
    子飼橋は以前はアーチ式でしたが、建て替え後はアーチが取り除かれました。また、ブルーの自転車専用レーンも設置され、風景が一変しました。
    また、子飼から浄行寺交差点間の道路ではセットバック(建築基準法42条2項に該当する道路で、新・増築や門・塀を設置する場合、道路の中心線から2m下がって境界を定めると言う主旨の道路)が適用されますので、以前有った建物が徐々になくなって来ています。
    「もっこす」の写真です。北門を出たところにあります。「もっこす」は、不思議なんです。地震で壊れるだろうなーと思っていたのですが、壊れませんでした(笑)。
      吉田ストアはセブンイレブンになっています。北門、丁度カーブミラーの有ったところですが、そこから竜神橋の出口辺り迄、全て以前の面影はなくなりました。又その裏手には、イスラミックセンターが出来まして、多分イスラム系と思しき人たちもたくさん見かけるようになりました。
    これは北キャンパスの図書館です。リニューアルしてガラスのファサード付きで、印象がだいぶ変わっています。
    工学部の食堂・生協の建物、今は理学部と工学部共用と言う意味でFORICO(フォリコ)と言いますが、外装はコンクリート打ちっぱなしの建物です。内部は、昔の食堂とは違って階段状の割とモダンな空間になっています。上から見ると、きちんと、おひとり様用の席が有ります。よく見ると、外国風のカップルもいます。だいぶん、国際化してきております。
    殆どの学生は、自転車通勤です。ご覧の通り授業のあっている時はいつも駐輪場は足の踏み場も有りません。

    最後は、私自身のPRです。
    私の設計・デザイン作品の紹介をさせて頂きます。
    まず最初は、小国町・岳の湯地域集会所(2002年)と言う所です。
    これは若いころ(1992年)の建築作品ですが湯前町の「湯の前まんが美術館」です。
    これは「ARASEDAM BOAT HOUSE」という建築作品です(1995年)。最近、蒲島知事が荒瀬ダムの撤去を決定し実施する前は水上のボートハウスでしたが、ダム撤去で水が亡くなった今は山の上のボートハウスになってしまいました(笑)。水面はここから10数メートル下がりました。この作品は、シカゴ美術館に招待されて展示したと言う歴史を持つ、由緒あるボートハウスでした。
    これは須永博士(すなが ひろし)という詩人のアトリエ(1996年)です。
    昔、木島先生と言う方がおられまして、先生の設計した手前のドーム(球磨村森林組合林業資料展示施設)の後ろにある球泉洞と言う球磨村の洞窟の周りの建物の設計を私が担当しました。
    これは、水上村(熊本県球磨郡)にできた、日本で初めての木造特別養護老人ホームです。
    最近(2012年)は人吉市にこのような「人吉リハビリテーション病院」を設計しました。
    現在は、元々やっていた熊本アートポリスのアドバイザをやっております
    伊東豊雄さんと言う、最近テレビでも良く顔を見る、建築家の方とも一緒にやっています。
    東北の東日本大震災時(2011年)に熊本から木材をもっていきまして、「(仙台)みんなの家」と言う集会所お作ってプレゼントしました。
    これは、熊本で学生達と、今の建物の構造を軸にして、東北に資源を持っていくと言う活動事例の紹介です。
    その活動は、九州北部の豪雨災害(平成24年、2012年)の時も同様の活動に引き継がれていきます。最終的に熊本型と言う方式になりまして、昨年(2016年)の熊本大地震の時に、従来の仮設住宅の改善形モデルを提供しています。
    これは東北の仮設住宅です。一つの棟が40〜50m有ります。隣棟との間隔が4m位の鳥の巣箱のようになっています。これをどうにか(改善)したいと言う事で、熊本は全然違うデザインを採用しました。
    これが、現在我々がやっているテクノ団地と言うもので、最大規模500戸あります黒く塗っている所が「みんなの家」、中心部は商店街を配置しています。従来は仮設の中に集会所が有りましたが、我々は、先ほどの説明通り東北への支援開始以来、支援策を継続的に考えてきました。今、従来と全く違う温かみのある施設を提供しようと試みています。
    これが、テクノ団地の仮設住宅の写真です。同じプレハブでも全然間隔が違います。幅を5〜6m取っています。政府からはムチャクチャ言われますが、我々は何とか頑張って最後までヤット押しとおせました。
    又、先ほどは1棟約45m位でしたが、我々はそれを3分割して、縦側に別の通路をつくって、そこにベンチ等を置いて、皆が休息できるように計画し、その方針を全110団地で成し遂げることができました。
    これは阿蘇・長陽村の木造仮設住宅ですが、たくさん作る事が出来ました。熊本市内の場合は、木杭をうってそこに仮設住宅を載せていましたが、ここではコンクリート製の基礎にして、後々使えるようにしました。

    後で、國武先生がお話されると思いますが、11月4日の120周年記念行事の件、宜しくお願いします。
    終わります。(拍手)

    【以上、桂先生公演内容要旨】


    司会者】桂先生、貴重なお話をおうかがい出来まして、本当に有難うございました。

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  • 【平成29年度】國武 雅司先生の講演『熊大120周年記念行事について』の要旨
    【120周年記念イベントが盛況裡に終了したことに対して、國武先生より下記のようなメッセージをお寄せ頂きましたので、先生の講演内容に先立ち掲載します】

    熊本大学工業会中部支部の皆様へ
     工学部120周年記念事業実行委員会 副委員長 國武 雅司

     昨年、平成28年11月4日、熊本大学工学部120周年記念イベントは、おかげさまで無事盛況のうちに幕を閉じることができました。祝賀会参加者だけで約500名の方にお集まりいただき、式典や学科イベントのみの参加者の方を加えますと600名を超える方にご参加いただきました。
    特に、祝賀会において、最後の締めの重責を中部支部の黒木信也さんと八明輝修さんが見事な巻頭言で担ってくださいました。
    終わりよければ全て良し、見事に盛り上がり、参加者のみなさんは、その後の二次会等に気持ちよく向かっていただくことができました。お二人の演武の前には現役の応援団も登場し、若い学生さんに熱い魂を伝えていただくこともできました。思えば、中部支部の総会に参加させていただいたことがご縁となり、中部支部からご支援いただけたことがこのような成功につながりました。
    中部支部総会において詳細な報告がなされることと思いますが、実行委員会を代表して、中部支部の皆様に主催者として深く感謝いたします。ありがとうございました。
    今後も、熊本大学工学部へのご支援よろしくお願い致します。
    【以上】
      司会者】それでは國武雅司先生の方から、熊大120周年記念行事の件につき、お話をして頂きます。

    國武先生】皆さんこんにちは。
    私はS58年合成化学卒業です。 今年は、工学部創立120周年に当たります。従って、11月に記念行事が行われますので、今日は、その件についてご紹介させて頂きたいと思います。
    國武先生 本題に入る前に、一言お礼を申し述べさせて頂きます。
    桂先生のお話にもありましたが、昨年の(平成28年)熊本地震では大変な目に遭いました。中でも建物が使えなくなった事が一番大変でした。しかし、幸いにも皆様方卒業生からのご寄付を含めて全国の様々な皆様からのご支援を得て、復興も概ね順調に進んでいます。
    研究装置等は、国の予算で、この1年で殆どリプレイスされました。本当に有難うございました。

    個人的な話ですが、私は黒髪に住んでおります。
    震災直後は、いわゆるライフライン、即ち水・電気・ガス等が停止しました。幸いにも給水設備は予想外に早く復旧しました。
    一方、ガスのほうは復旧が遅れました。ガスの場合には、完全に安全であることが確認されるまでガス栓を開けられないからです。しかし、全国各地からガス会社の関係者に馳せ参じて頂き、復旧を手伝っていただきました。テキパキとした彼らの仕事ぶりを見るにつけて「阪神・淡路大震災や東日本大震災等の経験がシステム化され確実に活かされているのだなー」という事を強く実感しました。
    皆様のご支援のおかげで、非常に助かっております。

    と言う事で、本題に移らせて頂きます。
    皆様に配布しました、パンフレット(桂先生によるデザイン)にも書かれていますように、熊本大学工学部創立120周年 「復興と展開〜夢 それを紡ぐ絆〜」とキャッチコピーの下で、工学部・大学挙げて本行事を盛り上げてゆく予定です。
    振り返ってみますと、工学部は同窓組織によって本当に支えられてきたと言う流れが御座います。
    会報にも書いてありますが、明治30年(1897年)に第5高等学校の工学部として、土木科と機械科が、創設されました。
    65周年(1962年、S37年)の記念事業では研究機関の充実を図り、技術革新の場に資することを目標として、工学部創立65周年記念事業会より寄付を受けて、工業技術研究所(後に工学研究機器センターと改称)を立ち上げていただきました。今では、ここが様々な分析センターとしてのキーステーションになっています。
    それから、創立80周年(1977年、S52年)の時には、大学院博士課程の設置を目指すと言う目標を設定して準備に取り掛かりました。この結果、昭和61年(1986年)に大学院工学研究科に生産科学専攻(後期3年博士課程)の設置が認められました。
    100周年記念事業(1997年、平成9年)ということでは「卓越した研究拠点となる大学院大学を支援する」と言う事で、多くの企業も含めて皆様方から多額のご寄付を頂きまして、「工学部100周年記念館」を立てさせて頂きました。この建物を得たことで、我々としては非常に助かっております。国際学会などを開くときに、工学部だけでなく医学部、理学部等、大学全体でこの建物を利用して各所の研究会合等を開いています。キーステーションとしての機能を発揮しており、本当に有り難く思っております。
    その後、各種の研究センターが立ち上がりまして、2013年には「パルスパワー研究所」が設置されました。
    現在は、工学系研究拠点としての全国研究拠点22大学の一つとして認められています。しかし、トップになった訳では無く、またこれには入れ替え制度が有りますので、今後、その課題をクリアするために頑張っております。
    120周年記念事業に関しましては、100周年の時ほど大規模な物ではありませんが、今回もご寄付をお願いしております。小額でも結構でございますので、よろしければご寄付にご協力頂ければありがたいと思います。
    研究拠点のグローバル化と言う事が強く求められている昨今、我が工学部としても、学生を積極的に海外に送り出したいと考えています。また、先ほど、桂先生からお話がありましたが、今後の我が国が直面するであろう少子化対策を考える必要も有りますので、海外から工学部を目指す学生の受け入れ支援策の充実強化も必要です。
    皆様から頂いた浄財はそのような目的のために使わせて頂きたいと思います。

    11月4日に開催予定の記念イベントは、12:45から記念式典を工学部100周年記念館を中心に、講演会、学科ごとの講演会・見学会を行います。午後5時から7時迄、記念祝賀会を大学のキャンパス内で行います。終了は確実に午後7時とする予定です。閉めは巻頭言と武夫原頭(五高寮歌)ですが、これも終了時間内に収まる予定です。
    祈念式典終了後、二次会として同窓会・クラス会を開かれてはいかがでしょうか・・・。
    また、これと時期を同じくして、国道の反対側の武夫原キャンパスでは学園祭(紫熊祭:シグマさい)も行われています。翌日、11月5日(日)は、実は「ホーム・カミングデ−」と言う事で、この日も大学として皆様をお迎えする行事が用意されています。

    120周年の祈念式典は、ニギニギしく行われることになると思います。
    実は熊本大学を卒業されて、海外でポジションを得られておられる方々や、豊富な海外経験をお持ちの方々に帰って来て頂いてお祝いをする「国際招聘ゲスト」と言うプログラムを用意しております。ゲストの方々にはその前後に、在学生等の交流の機会も持ちたいと考えています。
    記念講演会としましては、岩井先生(熊本大学名誉教授)に、「近代日本の工学教育研究のパイオニア」と言われ、熊大工学部の前身である熊本高等工業学校の初代校長(1906〜1911)でもある中原淳蔵についてのご講演をしていただく予定です。
    もう1件講演が予定されておりまして、先ほど、桂先生からも言及が有りましたが、平成28年(2016年)熊本地震の被害について、又、震災後の復興に大きく貢献しております色々な熊大学生の組織について等、そういう事を含めてご紹介させて頂く内容になるのではないかと思います。
    学科ごとの見学会もいろいろ準備しています。例えば私の所属しております、碧水会(化学系同窓会)と一緒になってこのような行事(プロジェクタ画面)を準備している所です。
    記念祝賀会は、120年式典を中心に出席者が約500名と想定して準備しています。学内行事ですので、式典では簡単な食事等がよういされています。もの足りないかもしれませんが、その後の2次会等で楽しんで頂ければと思います。
    記念祝賀会に関しましては、参加者本人が5000円、同伴者1000円です。同伴者としましては、奥様、お孫さん等々、任意です。併せてその場で「記念タンブラー」も販売します。
    ご参加頂く場合の情報収集に関しましては、工学部のホームページと工業会のホームページのいずれからでも可能です。また、公式フェースブックも立ち上げております。
    尚、熊本大学工業会ホームページのトップページの右下に「告知依頼(同窓会活動の告知依頼はこちら)」という入口が有りますので、ここをクリックして頂くと、同窓生が関与する様々な行事を工業会のHPで案内する事が出来るようになっております。また、御許可を頂いた場合には工業会公式facebook告知情報等を流すことも出ます。
    こちらが、熊本大学工業会公式facebookと言う事です。「熊大工業会」で検索して頂くとすぐにでてまいります。
    定期的に、昔の写真ですとか卒業式の写真、或いは黒髪近辺の状況、或いは、学内…実は工学部敷地内には一杯遺跡が御座いまので、それらの情報が随時アップされています。後でご覧になって頂ければ、一寸懐かしさを感じて頂けるかもしれません。

    それから、120周年関連の話とは異なりますが、池崎さんは、関東の化学同窓会の前会長さんで。現在はUターンされて、熊本大学の熊本地方産業創成センター(熊本の自治体、産業界、研究機関等のオール熊本で地域産業の活性化及び雇用創出を図るための強固な連携体制の拠点)のコーディネータとして本学に復帰されています。池崎さんから「是非宣伝してください」と頼まれましたのでお伝えしています。
    この機構の目的は、皆さん方の中で諸事情によりUターン、Iターン、或いはJターンしたいと希望される方に対しては、大学を中継地点として国や県がサポートするシステムが出来ております。従って、県の方に登録しておきますと、県内の就職情報が流れます。
    もし、「場合によっては、熊本に帰りたい…」と言うような希望を持たれた方がお見えの場合には、同窓組織としての応援を致しますよ、と言うのがその概要です。
    それから、もう一つこれもお願いなのですが、「熊本大学工学部120周年記念事業」と、今は「かんむり」付きですが、実は工学部ではOBの皆さんに帰ってきていただいて、直接学生さん達に皆さんのこれまでの経験を伝えて頂きたいと考えています。
    色々なプログラムがありますが、例えば「プロジェクトX講演会」では、最近の講演会としては凸版印刷鰍フ上席執行役員・佐藤友治さん(化学出身)に「印刷から広がる先端テクノロジー」と言う題目で講演して頂きました(2017年5月)。内容に関しては、アメリカで子会社を立ち上げた時、液晶ディスプレーの大型化等の問題の躓きで、結局挫折に至った事、又その失敗の経験を乗り越えた事等でした。
    皆さん方の中で、もし後輩にお話をされたいと言う方がおみえでしたら、それぞれの学科なりで経験談等を御披露いただければと思います。

    最後に話題話変わりますが、居酒屋「もっこす」についてです。私がチャンと取材してきました(笑)。ママさんはまだ元気です。何がすごいと言っても、私が未だ学生だった30年前から何にも変わっていません(笑)。
    また、つい20年位前までは、大学周辺に銭湯が5〜6軒は有ったのですが10年ぐらい前になるとほとんどなくなりました。私が良く通っていた銭湯を探してみたところかろうじて、しかし、ちゃんと残っていました。昭和の雰囲気もまだちゃんと残っていますので、皆さんも、120周年記念式典に出席の序に、是非一度訪れて見ては如何でしょうか。
    以上です、ご清聴ありがとうございました(拍手)。
    【以上】
      司会者】國武先生、非常に懐かしい話もお聞かせいただき、有難うございました。

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  • 【平成29年度】渡辺 幸任様 の講演『ドイツ短期駐在アラカルト』の要旨
    渡辺様
    渡辺様の講演内容に関しましては、ご提供頂きましたこちらのPDF資料 『ドイツ短期駐在アラカルト』をご覧ください。




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熊本大学工業会・平成20年〜28年度の各講演の要旨
宇佐川工学部長の講演要旨(H28) 豊島様の講演要旨(H27) 江端先生の講演要旨(H26) /金原様の講演要旨(H26)
阿比留様の講演要旨(H25) 山尾教授の講演要旨(H24)/ 増田様の講演要旨(H24) 栗原教授の講演要旨(H23)/ 古寺様の講演要旨(H23)
松島教授の講演要旨(H22)/ 中西教授の講演要旨(H22)浦川様の講演要旨(H22)岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21) 岡部先生の講演要旨(H20)  宇対瀬様の講演要旨(H20)


  • 【平成28年度】宇佐川工学部長の講演『平成28年熊本地震について』の要旨


    本年4月1日より熊本大学工学部長を務めることになりました、宇佐川と申します。本日はこのような機会を設けて頂き有難うございます。
    126 支部長総会などの機会に、卒業生がキャンパスを訪問された時などに先ほどの資料館の地震で大きなダメージを受けた現状等も含めてご案内させていただきました。しかし限られた時間内に全部ご覧いただく事も出来ず、どうしても出向いて説明しないとご理解いただけないだろうと考え、各支部で集いがある毎に、工学部執行部で手分けして直接お話をさせて頂きたいと、工業会にお願いしました。工業会にはご負担をお掛けする事になり心苦しいのですが、佐藤工業会会長の方からゴーサインを頂き、本日、ここに出席させていただいている次第です。

    4月14日、午後9時半頃に最初の地震が起きました。これは後になってわかったことですが、この地震は本震では無く、後日、前震と呼ばれるようになりました。「これは大変だ!!」と言う事になり、直ちに4月14日当日から学生たちが大学に避難して来まして、体育館や、或いは武夫原で被災者の受け入れを始めました。この段階ではまだ工学部1号館(本館)が使用に耐える状態で残っており、事務用の電話が全部使えましたので、学生安否確認を非常に効率よく行うことができました。新入学生の中には、翌週が申請〆切ということもあり、まだ履修申請を全て終えていない者もありました。そのため、関係者と連絡を取ろうとしたのですが、個人情報が思うように集められず、親御さんへの連絡先すら容易にはできない状態でした。兎も角、同日夜9時までには「何はともあれ、学生は大丈夫だ」と言う事が解って、その日は解散し、一安心で寝ていたところ4月16日午前1時半ごろ本震と言われる揺れに襲われました。 本震の発生のため、16日朝から再び安否確認を始めなければならなくなりました。しかし、この本震で「本館(1号館)は立ち入り禁止」となってしまいました。そうなると電話は使えない、机もないと言う事になり、しかもその当時、本館にある工学部長室を対策室にしていましたので、それも使えなくなりました。そこで、急遽、新たな対策室をアチコチ探し回った末に、4月18日(月)に、共用棟T(以前、機械や生産機械の建物があった場所に新たに立て直した6階建の建物。現在は、1階を情報電気系の教室として使用)に対策室を移して本格的な活動を始めました。
    その段階で大学本部から「5月9日に授業を再開する」という連絡が入りました。 黒髪北キャンパスも室内は大きな被害をうけていたのですが、一部を除いて建物自体は傷付いていませんでした。勿論、北キャンパスの五校記念館は傷んでいて、そのことは非常に大きな問題ではあるのですが…・。一方、医学部附属病院の建物は免震構造になっていて、オペレーションには全く影響がないほどの対策が進んでいます。それに比較すると私ども工学部の或る黒髪南キャンパスは、約9300u全体の建物が無くなってしまっている状態で、全員「どうした物か…」と言う状態でした。つまり結果的には、工学部が特に大きな被害を受けた様な感じになってしまいました。
    そのような訳で、事務職員全員が、それまでは講義用教室として使用されていた普通の部屋に移って、パソコンも一人一台持てないと言う厳しい状態でオペレーションするしかありませんでした。

    このスライドは(工学部)2号館と呼んでいる講義棟です。このすぐ裏手が機械系、マテリアル系が入っている13階建ての建物(研究棟1)です。そこを含め高層の建物を中心に、軒並み被害をうけてしまいした。
    例えば、研究棟1の上層階では水が出ました。地震による強い揺れによって、ドラフトチャンバー用の配管がずれてしまい水漏れが生じ、複数の下層階へも影響が及びました。問題だったのは、果たしてその水をそのまま下水に廃棄して良いものかどうか解りません。そこで、化学系の専門家にお願いして分析してもらって下水に流して良いかどうかを調べようとしたのですが、肝心の分析器が故障してしまい「万事休す」となりました。幸いなことに熊本市内に1か所だけ使用可能な分析機器を有している企業が有りましたので、そこに調査してもらった結果、本件は解決できました。
     複数の建物の継ぎ目は、実は今も通行禁止です。屋根の金属部が落ちる可能性もあり、状態はかなりひどく、今も何も手が付けられない状態です。昭和40年〜41年代に建てられた1号館は全く使えなくなってしまいました。一見したところダメージは大したことは無さそうに見えますが、2つの建物を1年間の期間をあけて作っているため、東側と西側をつなぐ廊下の真ん中に亀裂が入っている様子が、特に6階に上がるとはっきりわかります。亀裂が入ってしまった階段もあり、表面上は小さな亀裂に見えますが、本来、構造上の支えとなるべき所が完全に強度不足になっています。
    本震終了後も余震が千数百回、絶え間なく続いていますので、ダメージの累積で弱くなった部分から、次々に痛みが広がっていると言う状況です。 震災直後の私の執務室も震災のダメージにより、通常のやり方では部屋に入れませんので、天窓から中の様子を見て、中に入る方法を検討した結果、天窓を外して入りました。「扉がスライド式か、又は外開き方式だったら中に入れたのに…」と、これは事後の反省になりますが、内開き式の場合、どうしてもあのようになってしまう確率が高いようです。

    そのような状況のなか、兎にも角にも、5月9日の午前8時40分にチャイムが鳴り、授業を始めることが出来ました。そして、相当心配しましたが、学生たちも結局はキチンと戻ってきてくれました。
    被災者と言う点に関しましては、「幸いにも…」と言う言葉が適切かどうか解りませんが、熊本大学の学生を一人も失う事はありませんでした。小さな怪我をされた方は多数おられますが、重症者は1名だけでした。重篤な被害者が少なかったのは、前震発生の時点で皆さんが夫々の判断で親元に帰ったり、体育館に避難したりしたことが幸いしたと思います。つまり、本震の段階で倒壊した建物の中に居て挟まれたりする人が幸いにもいなかったと言う事です。もしそうでなく、夜中2時ごろ寝ている時に本震に有っていれば大変な事になっていたと思います。4月は季節的にも比較的穏やかな気候条件と言えますので、武夫原にブルーシートを敷いて友人同士助けあって何とか夜を過ごす事ができた事も、不幸中の幸いでした。

    次に、大地震と言う異常事態の中で、不安な気持ちを抱えて絶えず移動している関係者の動静を如何にして把握するかは大きな問題でした。携帯でつながる人もいますが、実際は連絡が取れない場合が殆どです。そこでWebによる安否確認システムを急遽立ち上げました。例えばスマホで最初の1回だけアクセスできて本人が同定できれば、それ以降はボタンを押せば生存情報が入ってきますので、コメントのやり取りも可能になって、コミュニケ―ションが成立します。事実、このシステムの立ち上げによって、様々な要望・苦情が寄せられるようになり、相互の連絡が出来始めたと言う確信を持つことができました。
    その他、大学内では減災センターと言いまして、災害が起こったらイの一番で現地に赴いて活動するグループが有ります。大学内の自らの研究室の事情も顧みずに、被災された益城の方々の支援に行ったグループも有ります。それから、社会環境工学科の学生を中心とした「熊助組(くますけぐみ)」と言う、最初は20名ほどで(平成19年に)立ち上げたグループがあります。それが今では100名を超える規模にまで大きくなり、困った人々を積極的に支援しています。

    また、忘れてならないのが、共同研究先やOBの方達が、色々な支援物資を前震直後の深夜から持って来て頂いたことです。その後も絶え間なくお水を頂いたり、食べ物をご支援いただいたり、或いは、励ましのお言葉をかけて頂いたりして、本当に多くのご支援をいただきました。
      ここまで皆さんが一体化した事はかってなかったのではないかと言うような印象を僕は持っています。
    機械学会から機械遺産として九州で2件だけ指定された重要文化財のうちの1件(旧機械実験工場)を本学のキャンパス内に持っています。これはレンガ造りの建物でして、今回の地震による激しい揺れによって、壁にクラックが入ってしまい、強度的にかなり低下してしまいました。もしこの壁が東側に倒壊してしまいますと、中に支えが有りませんので全体が一気に壊れてしまいます。
       危険を冒して中に入ったグループからの報告によりますと、中の展示物の上に色々な物、例えば此処の部分の壁などが、落下してしまっています。
    それからもう一つ、就職活動が既に始まっていました。「他所はドンドン動いているのに、僕たちは何もできない・・・・」と言う事で、5月の段階では学生は皆心配していました。しかし、公には6月1日と言っていますが、実際には、早い者は6月初めから2週間程度でもう内々定をもらう事が出来ました。先輩諸氏のご努力の賜物だと感謝しております。

    そうこうして居るうちに、うれしいニュースが舞い込んできました。
    一つ目は、明日(7月10日)に、東京で行われる学生ロボットコンテストに熊大の学生が出場する事です。これは、工業会の支援も有りまして、機械系の学生達が中心になって参加します。但し、うれしい悲鳴ですが、30席ほどしか確保できなかった応援席をOB関係者と工学部で奪い合いをしました。この結果は8月6日にNHKから放送される予定です。
    二つ目は、「グローバルモノづくりセンター」が今まで活動してきた事を工学教育協会からお認め頂きまして、工学教育賞受賞に関する決定通知が届きました。この授賞式は、大阪大学で9月に行われます。
    学生達も戻って来て、そろそろいろんな事を始めようと、元気が出てきた、6月16日、学長より「熊本復興支援プロジェクト」立ち上げの呼びかけが行われ、「大学としてできることをやって行こう」と言う方針が打ち出されました。
    「復興の意気や溢るる熊本大学」…これは第五高等学校の寮歌にインスピレーションを得て学長が提案されたキャッチフレーズです。

    皆様既にご存じかもしれませんが、実はまだ(7月9日の時点)東海大学の学生が発見されていません。そのような事態を早急に解決する事は勿論、最重要課題ですが、一方で、阿蘇地域が全体として大きく傷んでいます。素直に考えればわかる事ですが、例えば雨が降れば土砂崩れが起きます。そしてその土砂は川に流れ込み、白川を経由して有明海に流れ出ます。そうすると海産物、アサリなどが打撃を受けます。それと共に、ハザードマップによりますと、白川が氾濫した場合、熊本市内をはじめ熊本大学も水没すると予想されています。又、土砂が流れ続ける訳ですから、白川の川底はドンドン上昇します。今後更に雨が降り、ここに台風が来ると、一体どうなるか心配で、実は今回の震災の影響は、まだ1クール終わっていません。進行中です。そういう事もありますので、阿蘇を考えなければなりません、水を考えなければなりません・・・。それらを技術的な方法で支援することは当然必要ですが、ボランティア活動を通じて熊本に大学が有ってよかったと言ってもらえるように活動を広げたいと思います。

    6月25日にそこまで起きた色んな事を一度立ち止まって皆でブリーフィングしようと言う事で、半日かけて一般に公開する形での報告会を行いました。その時の出席者は約220名でした。今回は学内関係者の参加者は半数以下で、市民の方や県外の方も相当数お見えになりました。その席上、議論した主なテーマは以下の通りでした。
    ・何故、地震が起きるのか
    ・地震が起きた時、橋梁等を含めた建築物はどうなったか
    ・土砂はどうなるか、川は何をもたらすか
    ・お城や石橋への影響はどうなっているか
    以上の事は熊本大学の減災センターのHPとリンクになっていますので、アクセスしていただくと、本日の講演に使用したスライドも併せてご覧頂けます。
    テレビでも放映されているように熊本城はひどい状況です。また、テレビでは余り放映されませんが、石橋も相当いたんでいます。熊本に沢山ある立派な石橋が、ギリギリのところ踏み止まっていたのですが、その後の大雨で流されてしまい、橋が跡形もなくなってしまったと言う状況になっている所もあります。
    そういう事も含めて、大学としての役割を自覚して、きちんと研究した上で社会に還元し、恩返しする事が大切だと思います。阿蘇、地下水と表層水、そして有明海、これ等が一体となって、大きな災害をもたらす事ももちろんありますが、我々の熊本を支えてくれている水はここからきている訳です。この水によって支えられている事を改めて感謝しつつ、大学として向かい合っていく必要が有ります。

    熊大は来年120周年を迎えます。
    工学部としては、120周年の記念行事を中止することなく、何とか踏ん張ってやりたいと思います。復旧を完成された綺麗なキャンパスを卒業生の方々に見て頂く状態に達成する事は、多分来年の11月までには無理だとおもいますが、それでも、大学がキチンと活動していることを、それから、来年の春に迎え入れる学生たちを、責任をもって4年後には社会に送り出すと言う気概を持って取り組んでいる姿をお見せしたいと思います。

    中々難しい事も有ります。
    例えば、大学の研究施設の損害額の内、60万円以上の高額機器の損害額だけで数10億円のオーダーになっています。一定額は、勿論政府からの支援を頂けるのでしょうが、そのリストに乗らない物もたくさんあり、それをどうするかが今、心配のタネです。
    また、1号館は建替えになる可能性がかなりありまして、それを大学側からも要求しています。
    今後50年、ちゃんと使えるような良い建物を建てて欲しいという強い希望をもっています。(その後1号館の改築が決定しました。)
    兎も角、現状の環境を学生のために元に戻す事を最優先にどんどん進めていますが、今後どうなるかについては、経済的な問題、資材の入手困難性などの課題も有ります。

    非常に雑駁な話になりましたが、今、我々は新しい学生をちゃんと迎え入れて、育て・世に送り出し、先輩方の所に良い学生を推薦できるように頑張っています。そういう意味で、温かい目で、そして時々は厳しいお言葉もいただきながら、踏ん張っている熊本を見て頂ければと思います。
    引き続宜しくお願いいたします。有難うございました。
    【以上、宇佐川工学部長公演内容要旨】


    【西門幹事長】
    宇佐川先生有難うございました。
    先生のお話から、今回の震災の大きさを改めて実感させられました。又、熊本大学の学生達が、今風のSNS等のネットワークを使って安否確認等を行えたと言う事は頼もしく感じました。 又、お話の中で先生から紹介のありましたロボコン競技会の模様は8月6日、16時からNHK総合で放映されると言う事ですので、皆さん是非見ましょう。
    宜しくお願いいたします。





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熊本大学工業会・平成20年〜27年度の各講演の要旨
豊島様の講演要旨(H27) 江端先生の講演要旨(H26) /金原様の講演要旨(H26)
阿比留様の講演要旨(H25) 山尾教授の講演要旨(H24)/ 増田様の講演要旨(H24) 栗原教授の講演要旨(H23)/ 古寺様の講演要旨(H23)
松島教授の講演要旨(H22)/ 中西教授の講演要旨(H22)浦川様の講演要旨(H22)岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21) 岡部先生の講演要旨(H20)  宇対瀬様の講演要旨(H20)


  • 【平成27年度】豊島様の講演『題目:ゼネコンのおしごと−「あるゼネコン職員のつぶやき」』の要旨




    こんにちは!ご紹介頂きました、83年建築卒 豊島と申します。

    一般にゼネコンと呼ばれている前田建設工業鰍ニいう会社に勤務しています。
    昨年は(総会のメール騒動で)色々と物議を醸してしまいました。
    126 私の不注意で、ある先輩と遣り取りしたメールが皆様に飛んでしまい、話題となってしまったようで・・・、申し訳ありませんでした。
    さて、先ほど「ゼネコン」と表現しましたが、私が今勤めている会社は、業界のくくりで言うところの建設業界となります。
    本日ご出席の皆様がお勤めの会社、たとえば電気、機械、化学・・・、それぞれに業界が有り、それぞれのルール、しきたり、習慣が有ると思います。
    私の所属する建設業界、またゼネコンとはどういうものであるかについて、本日は皆さまに多少なりとも理解して頂きたいと言う思いを込めて話をさせて頂きます。
    よろしくお願いいたします。

    まず、ゼネコンとは何かから説明します。こちら(プロジェクタースクリーン)に書いてありますが、簡単にいうとゼネラルコントラクター(General Contractor)の略語なんです。
    人によっては「コンストラクター(Constructor)製造者・建設者」と思っている人もいますが、コントラクター(Contractor)には「請負業」という意味が有って、「総合的に請け負って仕事をします」というのがゼネコンの意味と考えていただければよいと思います。
    因みに、アメリカにもゼネラルコントラクターは有りますが、比較的小規模な会社で「何でもやります、よろず屋です」という形の会社をこういう風に称していまして、日本の「総合的に研究から開発設計等、何でもかんでもやって物を作ります」という形ではありません。従いまして、ゼネコンは日本独特の形態であるようです。
    正確な発音は「ジェネコン」になると思いますが、ご存じの通り「ゼネコン」と言われています。つまり、どちらかと言えば「和製英語」ですね。
    昨今のニュース等で、皆様が「ゼネコン」と言う言葉を聞かれる時のイメージはどうでしょう・・この画面の下の部分・・、かと思います。いわゆる3K、5K(昔は3Kと言っていましたが、今は5Kと言う様です)。
    キツイ、キタナイ、それからなんでしたっけ、アッ、キケンですね。それとカッコ悪い、キューリョーが安い・・。とにかく、ろくな言葉じゃないです。
    それから、あと汚職、違法な政治献金、談合、手抜き工事・・最近よく出てきますが「どこどこのマンションが傾きました」とか「マンションのスリーブ補強鉄筋が入っていませんでした」等ですね。あと「環境破壊」・・等々を一手に引き受けてやっている、とんでもない業界が建設業界であって、特にそれを牽引しているのがゼネコンではないかと言う事で、非常にイメージが悪いです。
    以上、ゼネコンと言う一般的なイメージはこのようなものでしょうか。

    皆さんこちらを見てください。少し文字が小さくて申し訳ありません。ご存知でしょうか、この「13歳のハローワーク」。これは、作家村上龍さんがとりまとめた、少し前の本ですが、この中で色々な職業の事が紹介されています。多分500以上、中には聞いたこともないような職業も書かれていますが、その中にゼネコンの仕事の事も書かれています。「大規模で高度な技術が求められるものを作るのが総合建設業(ゼネコン)です…」とこう言う風に言ってくれています。「総合建設業で働く人は建物の設計や材料、重機の調達、実際の仕事のスケジュール管理等、実にたくさんの仕事を、その道のプロを束ねながら進め、私達が生活するための空間や街を作っています。それら全てに関わっているのが総合建設業です。」・・いいですね。こういう風に言って頂きますと「すごくいい仕事をしているな」と感じます。この様に考えまると、街はまさに総合建設業成果物の宝庫。
    この様に総合建設業(ゼネコン)は私達の生活を支えるあらゆる物を作るお手伝いをしているわけですから、このような仕事に携わっていると何か凄く誇っていいような気がします・・、が「現実の姿(世間からの見られ方)とかなりかけ離れているのではないか」と身を置く立場としてはちょっとつらいなと思いますね。
    最近「13才のハローワー」と言う本は、色々な学校に教材としておかれていて、隠れたベストセラーになっていると聞き、一寸ビックリしました。今、子供たちはこのように色々なガイドブックを見ながら職業を選べる時代になったのだなと、一寸これは余談ですけど思いました。
    本書には、続けて、ゼネコンの仕事の進め方が、以下のように書かれています。
    何か建物を作りたいと言う人、これを発注者(建設等を依頼する人)と言います。それをゼネコンが受ける場合、営業が「コレコレの物件を、これだけの金額で、何時までにやってくれ」と言われます。その過程で、研究開発、設計、設備系の関係者と関わり合いながら、その仕事を取りまとめて行って、実際の施工現場に持っていき具現化するわけです。現場における物づくりの中では、先ほどの話にありました、「総合的にデリバリーしてゆく(整えて進めてゆく)」と言うのが、ゼネコンの仕事ですので、実際に手を動かして作ってゆくのは、その元で協力している二次会社、三次会社なんです。このような請負体制でやっていくと言うのがゼネコンのスタイルです。
    因みにですね、世の中にはゼネコンは山ほどありますが、「建設業と言うくくりで調べてみるとこのような会社も出てきます」と、一寸説明しておきたいと思います。実を言いますと、ゼネコンと言いましてもハウスメーカー系、プラント系、設備系等、色々なくくりが有ります。この図(プロジェクタースクリーン)で、ゼネコンと言われるメーカを色分けしてみると、このようになりました。
    それでは、まず建設業の中で一番金を稼いでいて、一番大きいいのはどこか・・・。それは大和ハウス工業鰍ナす。同社のCMはナカナカ斬新で、皆さんも大体、役所広司の顔が先に浮かぶのではないかと思いますが。
    次(に大きいいの)がセキスイハウス【積水ハウス梶z、この2社はハウスメーカー系です。三番目が大林組【椛蝸ム組】で、これ等が現在のゼネコンのトップ3です。実を言いますと大林さん【椛蝸ム組】、大成さん【大成建設梶z、カジマさん【鹿島建設梶zと清水さん【清水建設梶zは年によって順位の入れ替わりが結構有ります。この辺りは固定では有りません。、これ等の企業を「スーパーゼネコン」と言っています。因みに竹中さん【樺|中工務店】もこのスーパーゼネコンに入りますが、株式を公開していないため色々なランキングから除外されることが多いです。
    スーパーゼネコンは売上高1兆円を超えています。しかし、その下のハセコーさん【樺キ谷工コーポレーション】(売上高5800億円)当りからは売上高がぐっと下がります。これ以下のゼネコンを中堅ゼネコンと言いますが、ハセコー、戸田【戸田建設梶z、それからツーツーツー…ときまして、我が前田、それから三井住友【三井住友建設梶z、五洋【五洋建設梶z、それから先般いっしょになりました安藤・ハザマ【活タ藤・間】、熊谷【褐F谷組】、西松【西松建設梶z、東急【東急建設梶zと続きます。ゼネコンの中にはマリコンと言いまして海洋系をやっている所が、この東亜さん【東亜建設梶zとか五洋さんあたりです。
    この様なランキングで建設業界は動いています。折角作った資料ですので、もう少し(見てみますと、)右の方には、利益率や平均年収なども書かれています。内容をざっと見てみますと、給与トップテンが色分けして示されていますが、企業規模や順位にはあまり関係ありません。で、利益率・給与がいいのはとみると・・プラント系の会社です。例えば日揮さん【日揮梶zや千代田化工さん【千代田化工建設梶zの平均年収は約1000万円です。すごいですね。その次に来るのがスーパーゼネコン、それからハウス系のゼネコンと言ったところです。売上ランキングが利益率や社員年収にリンクしていない現実があります。こちらの、東洋エンジニアリングさん【東洋エンジニアリング梶zはプラント系、大気社さん【椛蜍C社】は空調をベースにやっている設備系の会社です。以上、述べた辺りが良い給料をもらえるところです。
    もし身内、息子さん、お孫さん或いは従弟などの親戚筋に、建設の世界で食っていきたいと思っている方がみえましたら、選択肢の中でゼネコンを選ぶにはやめた方が良いです。それでもゼネコンにという方はプラント系、或いは先々間違いないハウス系を選ばれた方がよいです。ゼネコンを紹介するのにこういう話になってしまって申し訳ありませんが、「こんな選択肢も有るから、よく考えた方が良いよ…」と忠告してあげて下さい。

    次に、どのような仕事をやっているかを知ってもらうために作品、物件をお見せしたいと思います。以下、資料提供は全て、前田建設の作品からです。
    まずは「社会基盤」こちらは駅関係、ダム、道路、それからこれは海底を掘っています。東京湾アクワラインの「海ほたる」は我社の施工です。それから東海北陸自動車道路、これは清美のICですが、道路はあちらこちらでやっています。空港関係では香港空港が世界一すぐれた空港としてランクトップを数年間維持しましたが、実は我社の施工物件。これは斜張橋方式のカップスイムン(汲水門)と言います。実は、この後にストーンカッターズ橋と言いまして、世界一の斜張橋も作りましたが、このように香港での仕事は結構多く手がけています。その他、トンネル、原子力、北海道新新幹線、これは数年後に完成予定ですが、現在工事をやっています。この様な感じで、インフラ系、社会基盤系と言う分野の仕事をやっています。これらは、主体はどちらかと言うと土木工事です。
    次は、「日常生活を支え豊かにする」と書いてみましたが、建物系です。
    これが東京・中央区・勝どき6丁目に作りました「ザ・東京タワーズ」と言う名称のマンションです。地上58階建て、戸数2800と言う、日本で一番大きなマンションです。一つの街をつくったと言う感じでしょうか。コマーシャルなどでも時々、バックで見えますので、「アッ!前田の仕事だな」と思ってみて下さい、お願いします。それから、たまさかですが、熊本の合同庁舎も我社でやらせていただきました。ホテル系もやっています。
    これは 福岡市にありますハイアットリージェンシー福岡(スフィンクスセンター)の様子です。我社の福岡支店がここにあります。設計者は米国のマイケル・グレーブズという方です。警察署、病院これは信州・安曇野にあります「こども病院」ですが、かわいい建物です。大学系では白百合学園大学などの実績が有ります。
    京都・嵐山公園に有ります超高級旅館・星のや京都です。とはいえ、我社からの紹介で料金は安くなりませんので、ご利用の際はそれぞれでお出かけください(笑)。これは豊橋にありますトピー工業と言う工場ですが、このように大きな工場もやっております。次もその流れで行きまして、ドーム関係、美術館、展示場・博物館、等々が有ります。それから焼却場、図書館、USJも一寸書いてありますが、ここを頭(メーン)でやったのが大林組組ですが、色々なゼネコンが関わっており、我社もやりましたと言う事で出しておきました。因みに、皆さん「アレー?!」と思われるかも知れないのが、この福岡ドームです。一般的にはドーム建設は竹中工務店の独壇場であるかのように思われておりますが、実はこの福岡ドームの屋根、開閉屋根は前田がやっております。
    それから小倉のメディアドーム、これは不動建設がやったと言われていますが、この屋根も我社が作りました。
    じつを言うとドーム建築は、多分、日本では竹中に次ぐと自負しております。豊田スタジアムの屋根も我社が作ったものです。
    次は「守る」がテーマです。災害対策や洪水対策などです。
    これは埼玉の地下にあります構造物、水をためるための施設の例です。それから、ちょいと最近話題になっております地震対策です。これは免震ゴムですが、某企業がやばいと言う事で話題になっています。
    もう一点、「守る」から「復興」と言う表現になりますが、東北地方の震災復興は現在もまた今後も長期間にわたる課題となっています。こういうものもゼネコンの仕事の一環です。それから、環境を考える中で、エネルギーが色々と話題になっていますが、それ以前に、土地浄化の話が良く出ます。ソーラー発電や風力発電などもあちこちで話題になります。こう言った辺りの施設をつくるのもゼネコンの仕事です。我社も、某県に事業者として風力発電会社の建設をやろうとしています。
    それから「未来を創造する」と言うテーマです。
    月面基地や海底牧場など、かってのバブル時代の夢の名残です。

    閑話休題T
    ところで、皆さんこれ何だかわかりますか。
    今、東京オリンピックに向けて計画されている国立競技場です。これはザハ・ハディドさんと言うイラク出身、イギリス在住の女性建築家の設計です。これが元々のデザイン案ですが、「一寸、お金がかかり過ぎだよね」と言う話が出て、色々と設計変更案が出されて、今このようになっていますと言う現状がこの絵です。
    但し、これは技術的にかなり困難な形状だと言う事で、2020年の東京オリンピック、その前年の2019年開催予定のラグビーの大会で使用したいと言うのが元々の話だったと思いますが、それには間に合わないのではないかと言われています。更に裏情報で付け加えますと、屋根に関してはA社(以下、匿名とする)、下部工についてはB社に、それぞれ今相談しています。
    その2社が、何とかやれますと言えば、多分その2社に行くとおもいますが、まだ決定ではないと思います。ですが、大方、「間に合わない」、「屋根はきっと無くなるだろう」と言うのが業界専らの見方です。

    以上、業界の話を良い面から、「こんなことやってます」と言う話をしてきましたが、せっかくの講演の機会ですので色々な面を知って頂こうと思いまして、次はテーマを「ダークサイドストーリ」としました。
    官民癒着、天下り…嫌な言葉ですね。(スクリーン)実はこの書籍、数年前に発売されたもので、「談合業務課」というタイトルです。これは、私たちにとっては、実は、ショッキングな本だったのですが、これは元、C社の営業課長が書いた本です。読まれた方はいますか・・・・? 実は、C社が関東近郊の旧国鉄跡地辺りの物件を次から次と落札し、その殆どを施行しています。C社は元々、関西の会社です。その会社が、関東圏へ打って出るキッカケになったと言っても過言ではないと思います。いま現在、C社は本社を関西から東京へ移しました。まさにこの場所に、ですね。国鉄清算事業団という国の機関がありました。国鉄からJRに切り替わった時、全国の国鉄の土地を色々な形で売却して、次の形に展開できるようにと言う狙いでこつくられたものです。旧国鉄本社跡地、汐留、品川駅、横浜MM21街区、八重洲口、錦糸町…いわば、関東未開発エリアのメイン部分です。、これらを国鉄清算事業団からC社が落札する訳ですが、その落札の手口がこの本には書かれています。
    要するに事業団の理事を天下りと言う形で受け入れ、入札予定価格情報を入手すれば。その価格の極近くで且つそれを下回る価格で落札できるという構図です。実はこれにはベースが有りまして、C社と旧国鉄の関係は明治時代に遡ります。業界の間では当たり前の話なんですが、東京駅ができた当時の元施行はC社だったんです。あの赤煉瓦の東京駅です。この時、C社は創業仕立てでした。おまけに関西の会社。それなのに、どうしてとれたのか・・・? もともとは、D社がやるかE社がやるかと言う話だったのを、C社が取った訳です。当時、東の方の建設会社は、火事に弱くすぐに立替えが必要になる木造建築をやっていた会社が多く、そのせいでしょうか、仕事は早いが、荒っぽい、品質が悪いと言われていたそうです。しかし、C社が当時、京都・大阪方面から連れてきた職人はとても丁寧な仕事をすると評判になっていて、東京駅設計者の辰野金吾さん(元帝国大学工科大学学長でその当時は引退して設計事務所を開設中)が関西系の方に肩入れをしたわけです。その結果、C社が取る事になったそうです。さらにその結果がすごく評価されまして、その後、横浜駅、大阪駅、京都、広島駅などの駅舎関係は悉くC社がやっています。因みに名古屋駅は大成建設さん(旧大倉建設土木梶jが手掛けていますので名古屋圏に居ると余りイメージがわかないかもしれませんが、全国で見るとC社はこの分野は非常に強いと言えます。それがC社と旧国鉄の癒着関係ベース・・、ちょっとした裏話でした。
    次は、一寸地元の皆さんにはショッキングな話でしょうか。名古屋市・地下鉄談合事件。ご存知ですか。
    小説家の池井戸潤さん(現在の「半沢直樹、倍返し」あの原作者ですが、江戸川乱歩賞受賞作家と言う事でミステリー系を描かれる方でも有ります)がこの事件をもとに「鉄の骨」という作品を書かれています。
    まさに名古屋の談合事件がモデルになっています。NHKで土曜ドラマでも放送されました。実際の内容はと言いますと、地下鉄6号線、野並から徳重に至る路線の工事、これを5工区に分けていまして、談合と言う話し合いで受注する会社を事前に決めてしまったと言う出来事が有りました。この事件は、業界の中では非常にエポックメーキング、ゼネコンが独禁法違反で刑事訴追されると言う初めてのケースとなりました。逮捕者も各社から出ました。普通のサラリーマンが不当取引に絡む刑事事件で訴追されると言うとてもショッキングな出来事でした。
    これに関しては躊躇われますが、一寸お話させていただこうと思います。2005年にゼネコン大手首脳による「談合決別の申合せ」と言うものが出されました。当時は日本全国、アチコチで談合が行われていました。色々と世の中で騒がれますし、法令順守の観点からも、このような事はこれ以後やるべきではないと言う事を、2006年4月「透明性ある入札規約制度に向けた制度改革」にまとめ宣言したわけです。ところが矢先の9月、名古屋市の下水道談合事件捜査の過程で地下鉄工事入札での談合の疑いが報道されました。スワッとばかりに名古屋地検、公取が強制捜査に乗り出しました(2007年1月)。6社応札して5社が落札する経緯も記録としてこのように残されています。見てお分かりと思いますが、予定価格以下の、しかも90%以上の精度で受注されています。事前の情報が無ければ無理な事が解ります。結果、関係各社が独禁法違反で告訴され、営業担当者が逮捕されました。ここに改正独禁法の自主申告と言うのが有ります。1社だけがこれを利用して、抜け駆けして刑事告訴(課徴金;億単位)を免れました。これは欧米でよくある司法取引に近い物です。これにより裏付けとされ、最終的に罰が確定します。刑事告発を受けて実際に逮捕者が出ると言う、この事件をきっかけにこれ以降、名のある企業は談合に拘わらなくなったと言う事ができます。

    閑話休題U
    これは知っている方は知っていると言う話ですが、会社と言うものは世界中に山ほどありますが、いちばん歴史が古い会社はどういうところかと言う話です。
    実は、世界で1番目、2番目、3番目に古い会社と言うのは全部日本です。
    一番古い会社が「金剛組」です。西暦578年の創業ですから、もう、1500年位やっている事になります。これが、世界最古の企業です。寺社建築と言いますか、建設会社です。
    聖徳太子が四天王寺建立の際、百済から招いた宮大工の金剛重光によって創建された会社、これがいまだに残っています。
    2番目に古いのが池坊(いけのぼう)。これもお花の世界ではよく聞く名前なので、私もこれを知ってびっくりしたのですが、創業が587年で、室町時代の中ごろから会社組織としてやっていると言う事です。
    3番目は山梨県・西山温泉の慶雲館だそうです(創業705年)。
    以上、話題提供と言う事でとり上げました。世界で一番古い企業が日本にある事、その企業は建築会社であること等を一寸、記憶にとどめて頂ければ幸いです。

    折角、こういう機会を頂きましたので、我社・前田建設について大急ぎでしゃべらせて頂きます。
    1番目:NHKの番組「プロジェクトX」に出たことが有る。
    実は、2004年の第157回「アジアハイウェイジャングルの死闘」…見られた方はいらっしゃいますか?
    これはアジアハイウェイを作るためタイのチェンマイに1965年赴いた時のものです。
    現地のジャングルの中で道路を作ろうとしたのですが、なかなか進まず苦労していました。
    その時、第2次大戦後、日本に帰らず現地に残っていた藤田松吉と言う方が、その工事のやり方を見ていて、「そのやり方では上手くいかない」と言って我社の工事に参加して頂き、最終的にうまく仕事が出来上がったと言う内容です。
    2番目:東京の五つ子ちゃん
    これは、ある程度の年齢以上の方は見られたことが有るかもしれません
    。 〇〇さんとおっしゃる方ですが、これは実は前田の社員でした。
    子供は3男2女でした。1981年生まれですから現在34,5歳になっておられるはずです。
    3番目:なぜか、株価が高めの前田。
    平均800円位、一時期1000円まで行きました。今は、他社のスーパーゼネコンさんがちょっと上に行っていますが、大体いつも高めです。何を評価してもらっているのか、社員が良くわかっていません。
    4番目;過去に小説の舞台になりました。
    ご存知でしょうか、「無名碑」や「湖水誕生」等を描かれた曽野綾子さん。実は曽野綾子さんは、我社の先先代の前田又兵衛さんと親交が深く、この小説を書くために、我社のいろんな工事現場を、10数年間めぐり歩かれて、書かれた物です。「無名碑」と言うのは、田野倉ダム、名神高速、アジアハイウェイなどを取材した結果で書かれた物です。また、「湖水誕生」は高瀬ダム取材の元に描かれた本です。
    それから、城山三郎さん(黄金峡)と小山いと子さん(ダム・サイト)が書かれた、小説等も有りますが、いずれも田野倉ダムがモデルになっています。何故かダムはモデルに成り易い、なぜだろう…ちょっとわかりません。

    5番目:最近の話題です。
    テレビの「ルーズベルトゲーム」、これも池井戸潤さんの原作ですが、撮影場所が豊橋だったことはご存知でしょうか・・・?この映像は殆ど豊橋エリアで撮影されたものです。これは、分かり難いですが、豊橋港にあるトピー工業さんのグラウンドや工事現場等が使われれています。先ほどもお話しましたように、トピー工業さんは工場建設などでお世話になっている我社の大事なお客さんです。

    6番目:次は、あんな物こんな物、作っていますと言う話です。
    前田建設工業のHPに入って頂きますと出てきますが、マニアックな話です。
    「ファンタジー営業部」と言う部署が有ります。
    そこで「こんな物作ったらいくらかかります」と言う企画を真面目にやっています。最初にやったのが「マジンガーZの地下格納庫」です。池の水がもち上がって、中からマジンガーZがおもむろに現れるというシーンです。本気で作ろうとすると72億円かかると言う結果になりました。
    ドミノピザの月面店については、本当にドミノ・ピザさんから建設見積を依頼されて、我社で計算しましたが1兆6700億円と言う結果になりました。
    銀河鉄道999の発進用の高架橋は建設費37億円、意外とお値打ち。ガンダムのジャブロー基地が2532億円。
    サンダーバードのトレーシー島秘密基地は4496億円.。一応、こんなことをやっています。また、これは本にもなっています、韓国語版も出版されていますので、一度ご覧になってみてください。
    一寸手前味噌に成りますが、見積に先立ち、色々な関連する会社にアプローチし真剣に打合せをして事前の情報を集めるなど、念入りな準備に基づいて作られた物です。「作って欲しい」と言う依頼が入れば、当然対応する必要が有りますが、現在までにそのような依頼は入っていません。

    7番目ですが、これも最近徐々に増えてきているそうです。お聞きになったことが有りますでしょうか「どぼじょ(土木女子)」です。
    私は知りませんでしたが、コミックのせいで広まった言葉の様です。但し「どぼじょ」と言うと、土木だけやっていますと言う捉え方をされますので、業界のほうから、業界がこんなことを言うのも変な話だとは思いますが、建設全体に広げたいと言う事で「建設小町」と言うようにと、最近は言っています(笑)。
    因みにこれは我社の社員ですが、雑誌の取材を受けて顔が出ましたので、この場に出しても当人たちから苦情も来ないだろうと思い、本日紹介させていただきました。
    こちらは、陸前高田の方で、震災後の色々な対応をしています、技術担当マネージャのS、○〇才です(笑)。
    それから、事業戦略部・上席調査員のHです。現在、社長室で働いています。主婦で子供もいます。
    こう言う女性が増えています。これは多分、我社だけの事ではないと思います。現在、建設業界は人材不足が言われていますが、海外の労働者を活用するとともに、国内では女性・高齢者の活用策を業界あげて探っている所です。

    私の昨年の仕事
    これは、昨年の総会当時に私が担当していた現場です。
    土岐市のプレミアムアウトレットですが、皆さん行かれたことは有りますでしょうか…?  土岐インターのすぐそばにあります。この中部エリアではプレミアムアウトレットとジャズドリームがアウトレット店の有名所として良く取沙汰されるようです。工事は全体で4期分有りますが、今回はその4期目と言う事です。当然既存のエリアは営業しています。そのつなぎの部分をやる工事が大変でして、実は、夜間しかできません。店の終了が21時、そこから工事をスタートして、翌朝の9時半には、お客さんの来店に間に合わせて終了しておく必要が有ります。限られた時間内にやれることを、区切りながら工事を進めてゆかねばなりません。私が担当したのが、この立体駐車場に掛かる橋の部分です。実はわたくしは建築屋ですので橋を作ったのは初めての事でした。
    何故、私がこの橋を作る事になったのか・? 先輩の新井さんに報告しておきたいのは、実はこれ建築工事で申請してあります。橋を建築工事で作りますと言う事、つまり、この橋は1階建ての建物と言うことになります。そのような特殊な事情が有りまして、配筋検査からコンクリートの強度から、建築の設計ベースで行われました。土木屋さんからは「過度な補強がされている。配筋量が多すぎる、コンクリート強度も高い。土木屋はこんなことはやらない」と言われましたが、無事建築確認申請をパスすることが出来ました。昨年のメール騒動もちょうどこの仕事と時期が重なりまして、物議を醸してしまいました。どうか、この辺りの事情を御推察下さい(笑)。
    本案件は無事完成しまして、現在私は、名古屋駅近くで次の工事に掛かっています。
    若い方に申しあげたいことが有ります。
    「建設会社って、こんな年(私は現在55歳です)まであくせく働くのってどうかな…」と言う意見も有るかもしれません。上手な人は、「おい、コレやっとけ」と言える立場の人もいますが、私はいまだに現場を這いずり回っています。ゼネコンを目指す方は、それなりの覚悟を持って入社されるようご忠告しておきます。

    アウトレット繋がりでお話を一つ。
    アウトレット土岐の横にテラスゲート土岐と言う施設ができました。ここに温浴施設が有ります。ご存知の方はみえますか。この施設は、実は、新井先輩の会社の設計でございます。 ここに買い物でお立ち寄りの節は、是非この温泉におはいりください、お願いします。

    最後に、ゼネコンの今後の見通しと言う事で終わりたいと思います。
    1992〜93年、バブル時代、日本におけるGDPと投資額の関係ですが。GDPは80兆円〜90兆円近くありました。当時の建設業界は、この金額の17%を占めていました。
    当時は、仕事量、受注金額、納期共に受注者側に有利な状況で、活況の中忙しく仕事をやっていました。
    一方現在は、建設業に対する投資金額、その占める割合共に大きく下がってきました。占める割合は10%以下になってしまいました。バブル当時大きくなった会社の規模を維持するだけの仕事量が現在は無い状態です。
    平成20年の東京オリンピック、リニア新幹線建設、北海道新幹線など、ポイント・ポイントの大仕事は有りますが、将来的には規模を維持する、横ばい状態が続くと思われます。そのような将来を見据えつつ、業界の未来を信じて頑張っていきたいと思っています。
    ゼネコンの話から、昨年の私の仕事に係る言い訳まで長い時間のご清聴、誠に有難うございました。(拍手)


    【幹事】ゼネコンの裏話等、分かり易く面白くお話頂き有難うございました。


    参考資料
    以上の内容につきましては、以下のPDF文書も併せてご覧ください
    ゼネコンのおしごと―「あるゼネコン職員のつぶやき」


     



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熊本大学工業会・平成20年〜26年度の各講演の要旨
江端先生の講演要旨(H26) /金原様の講演要旨(H26)

阿比留様の講演要旨(H25) 山尾教授の講演要旨(H24)/ 増田様の講演要旨(H24) 栗原教授の講演要旨(H23)/ 古寺様の講演要旨(H23)
松島教授の講演要旨(H22)/ 中西教授の講演要旨(H22)浦川様の講演要旨(H22)岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21) 岡部先生の講演要旨(H20)  宇対瀬様の講演要旨(H20)
  • 【平成26年度】来賓挨拶 の要旨


    116 続きまして、江端先生から簡単にご挨拶を頂きたいと思います。
    先ず、江端先生のご略歴を簡単に紹介させて頂きます。
    東北大学で1973年に助教授になられて、その後1980年に熊大助教授、1983年に教授になられて2001年に熊本電波高専の校長に就任されました。

    【江端先生のご挨拶】
    皆さん今日は。
    ただ今、ご紹介いただきました江端です。
    本日は、中部支部総会にお招きいただき有難うございます。
    私は昭和55年に熊大に参りまして平成13年迄20年間、熊大の電気に勤めました。
    その後、電波高専に転出しましたが、熊大の20年間で就職担当を3回任されました。
    昭和59年、60年、それから学科改組後の平成11年です。
    その際には、大変お世話になりました。尤も、この席には電気卒業生の方は余り多くないようですが…・・
    また、高専の卒業生も中部地区に来ているかもしれませんので何かとお世話になったことと思います。

    先ほど、秋山先生からもお話が御座いましたが熊大はここ10数年の間に大躍進をしましてトップ20に入った、と言う話は工学部長から聞きました。
    頂いた資料に拠りますと「私たちは世界トップ水準の研究を目指します」と宣言されています。
    私は平成6年〜10年迄4年間、工学部の学生部長を務めておりました。学生部長とは、今で言うと学生担当の副学長と言う事になると思います。
    そこで私が手掛けたことはコンピュータのインターネット機能を利用した学生の教務管理システムの開発でした。このシステムは、今でこそ広く普及して色々な大学の学部・学科で使われるようになったようですが、当時はようやくインターネットが普及し始めたばかりでした。
    そこで、教務管理システムを作るにはやはり、外部からアクセスして利用できるようなものが望ましいと考えました。それまではクローズドシステムで学内のみで利用されていました。
    学生が家に帰ってからでも講義内容を復習したり、履修届を提出できるようにしようと言う事で始めたのですが、完成したのは私の次の代でした。
    そのシステムの名前は「そうせき」と言います。
    このシステムは非常に評判がよくて、全国の大学で利用されていると言う事です。

    尚、漱石本人ですが、平成28年が没後100年目で、来熊(らいゆう)120年目にあたります。その翌年、平成29年は生誕150年目と言う事になります。
    従いまして、熊本でも漱石に因んだ色々なイベントが計画されつつあります。
    熊大もキャンパス内が大きく変わってきています。
    皆様も帰省・来熊の機会がありましたら是非、母校熊大にお立ち寄り頂きたいと思います。
    本日はお招き頂き、大変有難うございました。(拍手)



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  • 【平成26年度】金原様の講演『題目:レーザー点火装置の開発』の要旨


    126 本日の講師、金原さんのご略歴を簡単に紹介させて頂きます。
    金原さんは愛媛県出身の58歳。1979年に生産機械工学科を卒業されて、当時の日本電装鰍ノ入社されました。
    同年、1979年9月に鞄本自動車部品総合研究所に出向されて、現在まで同社に在籍しておられます。
    鞄本自動車部品総合研究所は排気規制対応、安全対策研究の目的でトヨタグループ11社が共同出資して1970年に設立された会社です。
    その中で金原さんは2003年、自ら提案された研究テーマである「レーザープラグ点火装置の開発」に従事されてきました。
    その大変貴重な内容を本日ご紹介して頂けると言う事ですので、皆さん静かな聴講を宜しくお願いいたします。
    それではお願いします。

    紹介に預かりました金原です。
    先ほどの秋山先生のお話の中にも有りましたが、私は爆発圧接の研究を熊本大学でやっておりましたので、本日のような機会を頂けた事に奇遇を感じております。
    それで本日の私の話「レーザー点火装置」には秋山先生の研究と一寸重なる所が有りますが、その開発について話をさせて頂きます。
    先ず、車の点火装置はこのような変遷をたどってきました。
    この様に、機械式のディストリビュータから電子制御方式に切り替わり年々小型化されています。
    しかしながら、電気で火花を飛ばすと言うような従来の点火方式では、今後製品化される燃焼室圧力が高い高過給エンジンになりますと空気の絶縁抵抗が高くなり、電極の消耗やリークといった課題が発生します。そのため新しい点火装置の開発が望まれております。
    例えばストリーマ放電でマイクロ波をプラグのこの部分に集めてエネルギーを点火後に集中させるとか、レーザーで着火すると言った色々な試みが各社で行われています。
    今回、私が開発中のレーザーが将来の点火系に何故いいのかと言いますと、従来の火花点火と言うものはパルス幅を数ミリ秒流して、電極の間に火花を飛ばしますが、その火花の温度が約12000℃です。これに対してレーザーは、先ほど秋山先生が言われた1TW/cm2、これ以上になるとプラズマが発生するわけですが、それぐらいにパルスを時間的・空間的に圧縮して放射します。
    そうしますと約20000℃以上の、火花点火の約2.5倍の温度が発生しまして燃料に着火できると言う非常に有利なメリットが有ります。
    もう一つ、火花点火と言うのはここに電極を持っておりまして、着火した後ここに火炎核が形成されますが、この火炎核の熱が電極に逃げてしまって火炎核の成長が阻害されると言うデメリットが有ります。
    これに対してレーザーは空間中に電極が無いので、火炎核の形成が早くて約2倍のスピードで火炎が広がります。
    そのほかにも、電極が無いものですから、その消耗もない。また、多重点火でノックや希薄燃焼が出来て燃費向上につながります。基本的にレーザーは、空気の圧力が高いほど集光しやすいという特徴があり、省エネにも有効と考えます。
    此処で、レーザーと火花点火の火炎核の形成を比較した実験についてご覧いただきます。
    これがエネルギーを35mJ入れた時の火炎核の成長過程です。
    ドーナッツ状に火炎が成長して行っておりますが、レーザーの方が約5倍火炎核の成長が早くなっていることがお分かり頂けると思います。
    これを100mJに上げていきますと更に火炎核の成長が大きくなります。
    これに対して火花点火はあまり変わらないと言う事で、このように、レーザー点火は投入エネルギーに対して火炎核の成長が非常に速いと言う特徴が有ると言う事をご理解ください。
    このレーザー点火の歴史ですが、レーザーは、1964年にメーマンが発明しました。また、世界で初めて大気中でブレークダウンさせたという論文をLaurence LivermoreとGeneral Motorsが1974年にSAE(Society of Automotive Engineers)で発表しています。
    その後、デンソーではこれを車に適用しようとして、1983年にこのような定容容器で燃焼実験を行ったのですが、当時はYAGレーザー装置が約机1個分ぐらいの大きさが有りましたので、とても車に搭載できる状態では有りませんでした。
    その後、国内の自動車メーカーと大学の共同研究がおこなわれましたが、当時、レーザー装置の開発が進んでいませんでしたので断念した様です。
    その後、オーストリアのウィーン工科大学がレーザー装置の研究を、私より1年半早く開始しました。
    このことを私は知りませんでしたが、将来的にはこのような装置が必要になるだろうと言う事で私は自ら提案しまして、ここから研究を始めました。
    実用化の課題として様々なものが有ります。これを実現するため、まず、レーザーを作ると言う仕事から始めました。
    これは私一人では出来ないものですから、協力者を求めて日本国中を探し回った結果、最終的に一番身近な地元・岡崎の自然科学研究機構の分子科学研究所に平等先生と言う世界的に有名な研究者がお見えになる事がわかりました。
    そのような経緯で、マイクロチップレーザーなら5o位の長さで発振できる事が解りまして、これならば車に搭載できるのではないかと言う事で共同研究を始めました。
    これはセラミックを使ったレーザーで、結晶を使ったものに対して低コストでできます。更に、レーザー品質が非常に高いので、高輝度にできますし、小型化も可能です。
    これを使えば、車への搭載も可能であろうと言う事で2003年から開発を開始しました。
    これは、海外の文献のここに「金原が始めた」と書かれていますよ、と言うものです。
    その後、光学部品が非常に高価ですので国からの補助金を頂きまして開発を進めて来ました。

    これはコージェネレーションエンジンです。原子力発電がなくなった時に天然ガスを使って発電すると言う考えの下に開発を進めております。
    今回は、このうちJST育成ステージで行いました「レーザー点火による試車両走行」、これは世界初なのですが、についてお話します。
    これは先ほどの分子研と共同で原理的なものを開発したレーザーを車にどうやって搭載するのか、その搭載方法と性能評価結果につき説明します。
    ただ単にレーザーを取り付けると言っても、色々な装置が必要になります。例えば、レーザーの共振器を水冷する装置、半導体レーザーの温度を一定に保つための電子冷却素子を使った装置、車両の走行状態に応じてレーザーを制御するコントローラを専用に開発しました。
    これが全体の構成です。日本には小型、高出力タイプの半導体レーザーがないので、アメリカから購入しました。この光源を光ファイバーで通してこのプラグ内に収めたレーザー共振器に光を導入します。
    パルス幅1ナノ秒以下、エネルギー15mJ、出力密度3TW/cm2以上の実現を目標にしています。
    まず、レーザー共振器の構成について説明します。
    従来のプラグと同じ体格の筐体中にレーザー共振器(3o角長さ10oのレーザー媒質であるNd:YAGとQswであるCr:YAGを挿入します。レーザー共振器の両端にはミラーが蒸着されており、その素子を冷却するパイプを側面に装着しています。
    此処から発振されたレーザー光が集光レンズで燃焼室の中心付近に焦点を結ぶようにセットしています。
    このレーザーの発振方法ですが、非常に小型化されていますので、1パルスのエネルギー2.5mJと小さいです。励起用の半導体レーザーの発光時間を長くすることによってパルス数を増やしエネルギーを増大すると言う制御方式を考案しまして、これがドイツとアメリカで特許となっています。
    これは、レーザーの構成要素を全て一体化した図です。
    先ほどのNd:YAGとその後ろに反射鏡を蒸着したものです。また、これはCr:YAG、透過率30%のものです。全てセラミックで作っておりまして、これらを1000℃近くでホットプレスして結合します。
    その両端を平行に研磨し両端に反射鏡を蒸着し、超小型高輝度のレーザー共振を制作しています。
    これに808nmの波長の光を入れますと、1064nm(基本波)が発振します。これを車に積んだ場合、温度が変わるとどうなるかについて評価した結果です。
    詳細は割愛しますが、温度が上がるとエネルギーがステップ状に低下します。それを防止するため水冷機構を設けています。
    これは励起用の半導体レーザーです。温度を約±0.3℃以内にコントロールできないと先ほどのNd:YAGを効率よく励起できませんので、これを電子冷却素子で温調しています。その結果、周囲温度、エンジンの作動条件が変わっても一定にコントロールできています。
    これが1気筒分の試作品で、ややオーバーサイズですが、最終的にはスマートフォン並みの大きさに抑えたいと考えています。
    このレーザーの特性ですが、集光レンズで集光した光のビーム径は8.5μmです。ここには合計3枚のレンズが入っていますが、レンズの性能は半導体レーザーを作る時のステッパー相当の集光性が高い非球面高性能レンズを使用しております。
    パルスは0.69nsと非常に短い時間でパルス波を圧縮していまして、そのビーム品質は、理論値の1.4倍ぐらいの所まで集光できることを示しています。
    先ほどブレークダウン可能な出力密度は1TW/cm2と言う事でしたが、余裕を見込んで5.5 TW/cm 2にしています。
    これはレーザーの効率が最大23%程度で、通常のレーザーは大体10%、エキシマレーザーは3%ぐらいなので、かなり高い効率です。
    これで着火した時の火炎成長過程を観察するためエンジンの燃焼室内と同じ環境下で計測できる気流流動装置を用いて観察しました。
    火花点火プラグは40mJ、レーザーは15mJ(2.5mJ×6パルス)入れて、流速を20m/sまで変えて評価しました。
    これが先の気流流動装置にプラグを置きまして評価した結果です。火花点火とレーザー点火を比較しています。
    空気流動が無い場合にはレーザー点火の燃焼速度は火花点火に比べて非常に速い速度で広がっていきます。
    これが、流速20m/sの場合です。プラグは同じところで火花放電していますので、ここからずっと成長していきます。レーザーの場合はレーザーが発振した後、火炎は拡大しながら気流に流されてこのように成長していきます。
    この様にレーザー点火のエネルギーは火花点火に比べて小さいにも関わらず、火炎成長がかなり大きいと言う事がお解り頂けると思います。
    レーザー点火のメリットが解りましたので、次にこのプラグをトヨタのオーリスに搭載しました。一寸予算が少なかったものですからこれにしましたが、本当はもうちょっとレクサス並みのものを使いたかったのですが(笑)、・・・・・。
    この様に、レーザー共振器やレンズを従来のプラグと同様の体格の中に入れております。ただ、水配管だけを追加しています。
    このように燃焼スピードが非常に速いこと、発生する圧力も高いと言う事がわかりました。
    空気を薄くしてもレーザー点火プラグでは十分火が点きますよ、と言う結果を得ました。
    車両走行に際しましては、レーザー点火プラグの制御変更及び作動状況をナビゲーションのパネルを(水温や半導体レーザーの温度コントロール、駆動電流、エンジン回転数、車速まで出るように)改造おります。
    そのレーザー点火プラグを車両に搭載した状態と試験走行の結果をVTRでご覧いただきます。
    光ファイバー冷却水配管をこのように目立たないように搭載しています。将来的にはこれは無くする予定です。
    このように世界で初めてレーザー点火プラグを用いた自動車の走行試験を行う事が出来ました。これから先は守秘義務上、カットさせて頂きますので悪しからずご了解願います。(笑)
    将来的には世界のコジェネエンジンメーカーに売り込めるよう開発を進めて行きます。
    将来的には他社よりも早くと言う意気込みで取り組んでおります。
    以上です(拍手)

    参考資料
    補助金を頂いた機関名と各機関のホームページのアドレスを、参考までに以下に示します。
    (1)JSTの東海イノべ―ションプラザ:http://www.jst.go.jp/chiiki/15nennsi/15-data13.pdf
    (2)科学技術交流財団:http://www.astf.or.jp/
    (3)NEDO:http://www.nedo.go.jp/


      溝端幹事】どうも有難うございました。
    世界最先端の技術を非常に分かり易く、我々にも理解できるようにお話して頂きました。
    “Confidential”と書かれていたようですので、このお話は会場外ではあまりしない方が良いのではないかと思いました。
    皆様もその辺の所には十分ご配慮いただきたいと思います。
    有難うございました。




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熊本大学工業会・平成20年〜25年度の各講演の要旨
 阿比留様の講演要旨(H25) 山尾教授の講演要旨(H24)/ 増田様の講演要旨(H24) 栗原教授の講演要旨(H23)/ 古寺様の講演要旨(H23)
松島教授の講演要旨(H22)/ 中西教授の講演要旨(H22)浦川様の講演要旨(H22)岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21) 岡部先生の講演要旨(H20)  宇対瀬様の講演要旨(H20)



    【平成25年度】阿比留様の講演『題目:会社紹介』の要旨


    001 昭和51年、機械工学科卒業の阿比留と申します。
    本日は講演と言う事で、ご指名いただきましたが、さて、何をやろうか…人様の前で話せるような信念も、又、特別な技術ももっておりません。それで、題目にあるように「会社紹介」と言う形態で、やらせて頂きます。

    ここでお集まりの会員各位それぞれの会社、特に私どものようにあまり知名度のない会社が「どういう会社なんだ」と言う事を紹介していくことが、一つの絆となり、更に、うまくいけば仕事へつながるキッカケとなれば最高であると思います。
    そのような訳で、今回、会社紹介やらせて頂きます。

    まず、プロローグとしまして、私どもの会社の前身は「旭兵器製造株式会社」と言う社名で、昭和17年に、オークマ(旧、大隈鉄工所)の子会社として設立されました。
    昭和17年はちょうど戦争の真っ最中で、当社では銃弾を作っていました。
    所在地ですが、その当時は、愛知県東春日井郡旭村ですので、その旭を採って、旭兵器製造株式会社となった訳です。
    現在は尾張旭市となりまして、この会場(ルブラ王山)から北東方向約10qほどに位置し、栄から瀬戸市に向かう名鉄瀬戸線の途中にあります。

    銃弾に関しましては、皆様がほしいと言われてもお売りするわけにはいきませんが、この部分はわが社を知って頂くためのPRとして、紹介させて頂きます。
    初和20年、終戦となりまして、占領軍指令により銃弾製造設備関係は全て破壊・廃棄せよと言う事になりました。

    従いまして、この時点で旭兵器製造株式会社は閉鎖と言う事になります。 昭和25年、朝鮮動乱が勃発します。
    米軍から日本国内での銃弾調達の要求が出され、昭和26年には、日米安保条約も結ばれました。
    ここで、日本国内における銃弾製造を目的として、昭和28年に大隈鉄工所(機械設備)を中心に、古河電工様が材料(薬きょう、銃弾用)、旭化成様が火薬、東海銀行様が資金面をそれぞれ担当する発起人となり、旭大隈工業株式会社と言う名称で設立されました。戦後もう一度銃弾を作り始めたわけです。

    昭和36年に社名が現在の旭精機工業株式会社に改称されました。
    その理由の一つは、旭大隈工業株式会社の隣に旭大隈産業株式会社と言う会社が有りまして、「紛らわしい」と言う地元の人からの声なども考慮してのことと聞き及んでいます。

    発足当時の、社内銃弾の発射試験場の様子です。
    銃弾を製造した場合、必ずロットごとに発射試験をしまして、品質を確認し試験結果を付けて弾が納入されます。

    銃弾発射で近隣にご迷惑をお掛けしないように、現在は縦方向約200mのトンネル型ドームの中で、相変わらず弾の発射試験を行っております。
    従って、日本で一番弾を撃つのはわが社の品管の人間だろうと思います。(笑)

    発足当時に作っていた銃弾の種類です。
    ここに載っていないもので、戦時中にはゼロ戦で使われた13mm機関砲用銃弾なども作っていました。

    話しがもとに戻りますが、旭大隈工業と言う名称のもと昭和28年から銃弾製造を開始したわけですが、最初の2回の発注元はいずれも米軍でした。
    日米安保条約の下で、日本の軍備力を高めようと言う方針も有り、米軍からの銃弾発注だった訳ですが、3回目以降は防衛庁(現、防衛省)からの発注となりました。
    それと同時に、銃弾の発注数が激減いたしました。
    従って、会社としても、それだけではやっていけなくなりました。
    それで、民需を開拓できないかと言う事で、元々、大隈鉄工の機械製作に関するDNAを受け継いでいますから、民需に活路を求めたわけです。
    ところが、民需と言いましても、そう簡単に右から左とばかりに製品開発ができるわけではありません。

    そこで、我社がまず最初に行ったのが、海外との技術提携でした。
    昭和30年代後半からの話でしたが、海外との技術提携は当時は「おいしい話」が多々ありました。
    今でこそ、グローバル化がすすんでいますので何か新しい製品を思いついたと思っても、インターネットで調べれば、その分野には数えきれないくらいの企業が進出していることが良くあります。当時は海外製品を国内市場にいち早く導入するだけで、為替の関係や技術の関係で商売として直ぐに成り立つ、あまりハズレないと言う時代でした。
    この様に、海外との技術提携で商品を増やすと言うのは、結構、効果的な手段でした。

    ただそれでも、多くの失敗とわずかな成功で地道な努力を積み重ねてきた結果で、どうにか産業機械という事業分野、それは今、私が担当している部門ですが、が成り立ってきた次第です。

    僅かな成功例は、後で紹介しますが、まず失敗…とまでは言いませんが、消え去りし製品の数々について紹介します。

    昭和40年代の初めごろですが、爆発成形技術です。当社は銃弾の関係で火薬の扱いに関するノウハウは有しておりましたので、この研究をやっておりました。
    水中で火薬を爆発させて板金を成型する技術の研究開発です。
    また、義足の開発研究などを含めて、社内だけでなく産学共同研究と言う形で行っておりまして、この「産学」の「学」が熊大だったようです。
    この2つは、基礎研究の面が強くて、特に爆発成形は隣近所に迷惑もかかりますので、結局、商売にはなりませんでした。
    ただ、私は昭和51年に卒業したのですが、当時は不況の真っ只中でして、学部卒業生の約半数が大学の研究生として残ると言う状況でした。
    幸いにも私は、私が義足の研究をされていた先生の下についたおかげで、「名古屋に面白い会社が有る」と紹介して頂きました。
    この様なつながりで私は、今の会社に来たようなものですので、二つの研究は失敗しましたが、熊大が私と会社を結び付けてくれたと言う事、それが最大の成功ではないかと思っています。(笑)

    次に、卵の洗浄器ですが、これは技術提携の例です。
    イギリスの会社と技術提携でやりました。しかし、見事に失敗しました。
    卵と言うのは、表面がツルツルだとよくないですね。
    少し凸凹(ザラザラ)の所に新鮮さが有るのであって、「磨きゃいいと言うもんじゃない」と言う事で(笑)…、これは失敗でした。

    次も技術提携の例ですが、インパクトハンマー、無反動ハンマーについてです。
    ハンマーの後部に空間を設けて、そこに砂が詰まっています。
    普通のハンマーは固い物をポンとたたくと、反動でカンと跳ね返ります。
    無反動ハンマーでは、ポンとたたいた瞬間、内部の砂の効果で、反動を抑制すると言う仕組みですが…・売れるわけないですよね…。
    私の入社当時、工場と言う工場、そこいら辺にたくさんのハンマーが転がっていまして、ハンマーは使い放題と言う感じでした。

    8o映写機は、OEM受注製品でした。従いまして、製造・組立だけで販売はありませんでした。
    しかしながら、OA機器を含むこれらの製品は、短期間で直ぐ、次のタイプに代わってしまいます。この8o映写機もその例にもれませんでした。
    一応、製品化はできましたが、継続できる製品ではありませんでした。

    いよいよ、成功した例です。
    現在はもう、古いタイプとなっていますが、スイスのコップ氏と技術提携して製品化した、コップ無段変速機を製造・販売した話です。
    これは、昭和34年のことです。
    このコップ無段変速機と言うのは、すでに世界各国(9か国)で技術提携がされていました。
    従って、日本の我社との技術提携は10か国目と言う事になります。
    本社のロビーには、世の中に出て、ぐるりと一巡して我が社に戻ってきた1号機が展示してあります。
    工学部卒の皆様の前での講演ですので、少しはアカデミックな話も必要だろうと思いまして、コップ無段変速機の原理を簡単に説明します。

    こちらからモータの入力回転が入ってきます。
    入力の回転運動はドライブボールと言う部分を介しまして、出力軸に伝えられます。
    このドライブボールは軸に対して傾斜できるようになっています。
    傾斜角度はハンドルを回して与えられるメカ的な構造になっています。
    入力軸で入ってきた回転はドライブボールの大きい直径で回って、出力するときは、小さい方の直径で出力軸を回すことになります。
    つまり、入力回転に対して出力側は減速された速度で最終的な軸の回転として出てゆくことになります。
    一方、増速側の場合は、ドライブボールの傾斜が逆になりまして、入力軸の回転に対して出力軸が増速されます。
    これらの特徴は、無段階変速が簡単に得られることと、減速側にすれば、同じ2kwのモータであっても出力トルクは1.5倍とか1.6倍になると言う事です。
    増速側にすれば、トルクは落ちますが高速回転を得ることができると言う事です。
    30年以上にわたって稼がせてもらいましたが、現在は、インバーターモータやサーボモータが安価に登場しまして、本製品は製造を中止しました。

    次は、米国のコロンビア社との技術提携製品でコイニングプレスです。
    旧大蔵省の造幣局に収めました。
    1円から500円玉までのコイニング(刻印)をするための機械です。
    おかげさまで、128台の受注を造幣局から頂きまして、今でも十数台が活躍しています。
    記念硬貨や記念メダル関係にはこの機械が現役として使われています。
    残念ながら、現在の量産用としては、ドイツのメーカーの機械が採用されています。

    これからが、現在の私たちの会社の紹介になります。
    米国のUSベアード社との技術提携によって、始めたトランスファープレスと言う機械です。
    ここにサンプル(パソコンなどで使用される携帯電話用のリチウムバッテリー用のケース)を持ってきましたが、一枚のフラットの薄板(帯材)が、本機械の中を流れて、最終製品に仕上がってゆくものです。
    薄板の絞り加工分野を得意としています。 代表的な製品が、単一〜単三用乾電池ケース、携帯電話用の角ケースなどです。
    それ以外に、パイプ形状の製品のコストダウン対応として、フラット板をこのプレス機械で絞ってシリンダー化する等の加工ができます。

    特に電池用ケースの分野では、使い捨て用の一次電池、充電用の二次電池など、世界シェアの約50%が当社のプレス機械で生産された物です。
    現在、バッテリーの需要の拡大ブームは当社にとってありがたい追い風と言えます。

    生産現場の動画をお見せします。
    材料ブランキング工程から次々に隣の工程に移って行き段々細長いシリンダー形状になって行きます。
    電池缶などの安い物は、150個/分以上の生産スピードでなければ、コスト的に合いません。

    二つ目の製品、これも技術提携で始めたものですが、CNCのスプリングフォーマと言います。
    バネを作る機械です。
    現在、バネ製造は全てCNCサーボ制御方式になりまして、どのような形状のバネを作るかは、エクセル形式のパソコン画面で、顧客のオペレータが自由にプログラムしながら、同時に製品を仕上げていくと言うやり方になっています。
    バネ以外の電気的なコイルやフォーミング物等も当社の得意分野です。
    バネ成形機の様子を動画をご覧ください。
    加工ツールがロボットアームのようなイメージで機械後方から送られてくる材料を成形していきます。
    展示会のデモンストレーション用に「トーン記号」の形のアクセサリーを作っている様子です。
    一筆書きできる形状のものなら何でもできます。

    儲けそうな事には何でも興味があります。
    機械加工技術そのものも商売にしようと、航空機の部品加工の分野に35年前に参入しました。
    ジュラルミンを無人で切削加工する動画です。加工している物は、ボーイング787の主翼部分です。
    この世界も加工賃はどんどん安くなっています。
    そこで、他社との差別化を図り、如何に高速加工できるかが重要なポイントになります。

    以上、会社の概要を説明させていただきました。
    当社を直接見たいと言う方、私にご連絡いただければ工場案内なり何なりをお引き受けします。
    但し、銃弾は見れません(笑)。
    セキュリティが非常に厳しいので、社員の中でも特別許可された関係者しか、工場内には入れません。
    見学は民需製品関係に限らせて頂きます。

    講演は以上で終わりです。
    以下、ゴルフ部会部長としてご報告いたします。
    お約束通り、昨年平成24年10月21日に支部ゴルフクラブのゴルフコンペを開催しました。
    その節には、田淵さまにお骨折りいただき有難うございました。
    おかげさまで、2組8名の参加が有りました。
    スコアに関しましては宇対瀬さんだけがずば抜けていました。
    1強、後の7人は・・・・・・、1強7弱と言う結果でした。
    この様に、ほのぼのとやっておりますので、「一寸、やってもいいかな」と思う方の参加を是非お願いします。

    どうも、ご清聴ありがとうございました(拍手)。



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熊本大学工業会・平成20年〜24年度の各講演の要旨
山尾教授の講演要旨(H24)/ 増田様の講演要旨(H24) 栗原教授の講演要旨(H23)/ 古寺様の講演要旨(H23)
松島教授の講演要旨(H22)/ 中西教授の講演要旨(H22)浦川様の講演要旨(H22)岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21) 岡部先生の講演要旨(H20)  宇対瀬様の講演要旨(H20)
    【平成24年度】山尾教授の講演要旨

    当日の山尾教授のスピーチはこちらの資料(当日のパワーポイント資料をpdf化しました)に基づいて行われました。併せてご覧ください。
     「最近のキャンパスT(4Mb)」   「最近のキャンパスU(4Mb)」    
    001 皆様こんにちは。ただ今ご紹介に預かりました、大学院の自然科学研究科所属で、社会環境工学科の山尾でございます。本日は中部支部総会にお招きいただきまして誠にありがとうございます。
    私の今回の講演のキーワードは「工友寮」ということですが、工友寮には大学4年間の在学中に住んでおりました。現在、大学におりますので工友寮の整備にも関わってきました。工友寮コーナーが整備されて、工学部の旧機械工場・赤レンガの2階に設けられています。その内容もお話の最後の方で少し紹介させて頂きます。
    詳しい話は、昨年黒木さんを始め、諸先輩からも紹介されているようです。
    今日、名古屋に来まして、先ほど前田先生にも久しぶりにお会いしました。前田先生には私も大学生時代にかなりご迷惑をおかけしました。また、大学卒業後、教員になり、教養部の授業で、前田先生から直接教わったことが「ハンコの押し方」でした。ハンコの写りが少しでも具合が悪いと「なっとらん。それは印ではない」と、厳しく指導されました。そのことはずーと頭に残っていますが、未だに理想通りにハンコ押しができていませんね・・・。
    それでは、大学の状況につきましてお話し致します。今、大学は非常に厳しい状況あります。どうして厳しいのかということ是非理解していただければと思います。

    ◎大学方針
    熊大工学部は里中工学部長のもとに頑張っていますが、大学を取り巻く環境につきましては、本年(2012年)6月4日にすでに発表されました通り、次のような問題点が指摘されています。
    (1)今の大学生は勉強しない
    (2)特に、グローバル化の観点から、外国語については社会で通用する能力が身についていない。
    このような背景から、工学部長の以下の3つの方針のもとで、工学部でも「国際人で有れ」というモットーのもとに人材育成に努力しております。今後は「グローバルに活躍できる人材の育成」がキーワードになるものと思います。
    (1)人間である事
    (2)プロフェッショナルである事
    (3)そして国際人である事


    ◎大学を取り巻く環境
    パワーポイント資料(以下PPT資料と言う)にありますように、大学を取り巻く環境としましては「競争と評価の時代」の中にあるといえます。一方で、「理科離れ」や「ゆとり教育」等ともいわれておりますが、今後、工学部への入学希望者がますます少なくなるのではないかと懸念されています。優秀な学生を如何に確保するかが今後の大きな課題です。他方で、日本産業の未来動向に関しましては、むしろ皆様の方がお詳しいと思いますが、円高やグローバル化・産業構造の空洞化等、様々な問題点が出てきております。産業界からは、大学に元気な卒業生を求める声が高まっています。大学としても、その狭間にありかつ真剣な自己変革を求められており、まさに正念場に立たされているといえます。もっと人材育成に大きな力を注ぐべきではないかと思います。
    さて、私自身は今年(2012年)の4月から、教養教育の改革、具体的には大学教育機能開発総合研究センター(以前の教養部の機能の一翼を担うセンター)のカリキュラム開発や組織改革等にも関わっております。その結果を来年度の教養教育の内容に反映すべく見直しを進めているところです。その意味からも、教育・研究の両面から社会貢献をする必要があると思っています。今後は、「教育の質の確保とグローバル化」、「学生の元気は大学の活動力の鏡像」、或いは「研究活動の活性化は大学の命綱」と言う3大原則でやらなければならないという共通認識が必要であり、関係者全員の間にも徐々にこの認識が浸透しつつあるものと考えます。

    ◎第2期中期目標・中期計画
    熊本大学も研究拠点大学を目指して国際化の推進を行っています。第二期中期計画における工学部の目標としまして、グローバル化時代をリードする技術者、研究者の育成を目指して「グローバル人材育成事業」に申請しています。今のままでは社会の期待に十分応えきれなくなるとの認識のもと、具体的にはTOEICで600〜700点程度の理系英語の能力を習得した学生を送り出そうと考えています。

    ◎学部学生数
    PPT資料に示すように、年々、女子の学生数や留学生の数も増えてきております。

    ◎工学系の建物
    帰熊の節にはぜひ大学のキャンパスを訪れてみてください。昔のイメージは一新されたものと思われます。13階建の機械システム工学系は昔の中央館であり、建築学・社会環境工学系の建物も耐震補強されました。道路を挟みまして黒髪北キャンパスには教養、法学・文学系、教育学系の建物が有ります。

    ◎キャンパスの充実した施設
    キャンパスの施設等を紹介します。全講義室にAV機器、空調設備を完備することが求められています。無線LAN接続はキャンパス内のどこでも可能です。学生支援室では昼休みや放課後、院生が中心になって後輩たちをサポートするシステムもあります。FORICO(生協食堂・売店)もPPT資料に示すように新しくなりました。

    ◎国際基準を満たす教育プログラム
    個性化(特徴ある教育)に関しましては、理数学生応援プログラム、通称、「理数大好き入試」がスタートしています。教育の国際化としましては、秋入学が新聞紙上をにぎわしていますが、一気にその方向にいくわけではありません。熊大としましては、編入学生を今年、中国から2名受け入れます。今後も継続する予定ですが、その場合は、英語による教育も必要になるかと思われます。JABEE(日本技術者機構)の認定として、今年、機械系及び社会環境系等が、更新審査の受審年になっております。化学系はISO14001の分野別到達目標設定にしたがったシステム運用を展開中です。

    ◎ものづくり教育
    これも、工学部の特徴的な試みの一つでございます。革新ものづくり教育センターを作って、学内、企業、地域、或いは国際的な連携を取りながら「ものづくりのできる学生を育てる」ことが大きな目玉です。

    ◎日韓合同デザインキャンプ
    2011年8月に熊大と韓国・東亜大学で協力してデザインコンテストを開催しました。学生たちが夏休みに約3週間、コミュニケーション手段は英語によって、チーム単位でコンテストに参加しました。

    ◎理数学生応援プロジェクトの目標
    理数分野における理論と応用に強い、国際的人材の育成を目指す取り組みです。「高・大・大学院連携型理数学生ステップ・アップ・プログラム」とよぶ特別コースです。各学科、若干名の学生を推薦入試で選抜しております。又、大学入学後でも本コースに転入可能なシステムも取り入れています。新入学生が減少する社会的背景の中にあって、チャレンジ精神が旺盛で理数系に強く、観察力・理論的思考力に卓越した学生を如何に発掘するか苦心しています。

    ◎工学部の主な取り組み
    研究の主な取り組みは次の通りです:
    (1)太陽電池・自然エネルギ寄付講座の継続
    (2)自然科学研究科研究センターの改組
    (3)G-COE(パルスパワー)、地域結集型研究開発(KUMADAI/マグネシウム合金)。
    KUMADAI/マグネシウム合金に関しましては、本日皆様に配布いたしました「かけはし」に記事が掲載されています。河村先生が中心となった先進マグネシウム国際研究センターが昨年設立されました。
    運営の主な取り組みですが
    (1)教員組織のポイント制導入…ポイント制による教員採用システムです。
    (2)バファリングによる女性教員の採用…女性教員を必ず1名は採用するようにということで、各学科とも要請に沿って増やしています。

    ◎掲載論文数・被引用数でのランキング
    2009年の朝日新聞の記事によりますと、熊本大学の位置づけはこのように(PPT資料)なっております。

    ◎研究センター・拠点形成研究
    大学における研究センター等の階層構造はこのように(PPT資料)なっておりますが、国際卓越研究センター等が現在形作られております。大学院或いは工学部も、現在、改組に向けて動き始めております。来年、再来年位には具体化する予定です。

    ◎主な研究グループ
    衝撃バイオエレクトロニクス研究所や先進マグネシウム国際研究センター等を中心に研究が行われています。基礎的研究センター群等の研究コアを増やしながら、大きなセンターに育てていこうという構想です。

    ◎世界とのコミュニケーション
    英語教育は必然的にやらなければならないものと認識しています。外部試験のTOEFLの導入等もしておりますが、能力的にはまだまだ不足しています。海外大学との大学及び学部間交流協定に従いまして、研究のみならず学生も留学ができるようなシステムを持っております。総数27か国、130校との交流が進んでおり、留学生は総数430名、内自然系が180名ですが、この辺りも今後増やすべきであろうと思われます。
    ICAST(アイキャスト:International Student Conference on Advanced Science and Technology)は科学・技術分野におけるは大学院生を中心に国際的な交流の促進を目指すものです。パートナー大学間の積極的な連携とネットワークの拡充を目指しています。現在までに6回の会議を開催しています。第1回目の熊本から北京、ソウル、イズミール(トルコ)、インドネシア等での実績が有ります。
    熊本大学フォーラムに関しましては、2003年の東京フォーラムを皮切りに、2004年の関西フォーラムから最近では2010年にハノイで開催しています。このように、東アジアを中心に国際連携を深めています。
    学生の自主的な取り組みもいくつかあります。分野や学年を超えて開催される各種コンテストにおいてアイデアを競い合っています。ものづくりから出発して、ETロボコンや種子島ロケットコンテストなどにも参加しています。

    ◎運動会
    運動会を復活させました。昔と違って団旗は7種類になっています。平成20年が復活第1回です。以降、21年、22年とこのような(PPT資料)状況になっています。平成23年には社会環境工学科に女子学生の応援団も登場し、まさに時代の流れという感じです。昔の運動会を知る方々は「こんなもんではない」と思われるかもしれませんが、これも時代の流れでしょう。また、帰熊の機会が有りましたら、毎年10月10日前後の日曜日に開催しておりますので、スケジュールを併せて頂ければ幸いです。

      最後になりましたが、工友寮に関する写真だけ一寸紹介させて頂きます。旧機械工場の2階の工友寮展示コーナーにはパネルが置かれており、工友寮旗、略年表、OB会の記念写真等が展示されています。旧制の第五高等学校に関する資料も含めて残されておりますので、動態保存(機械遺産)の機械工場と共にこのコーナーにも是非、足をお運びください。以上で簡単ですがご紹介を終わります。
    今日はどうも有難うございました。(拍手)
    以上



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    【平成24年度】増田様の講演要旨

    当日の増田様のスピーチはこちらのpdf資料「橋」に基づいて行われましたので、併せてご覧ください。

    昭和44年金属を卒業しました増田と言います。 001 私は、今、茨城県に住んでいます。20年ほど前まで名古屋に住んでいて、中部支部にも顔を出しておりましたので、今は中部支部に資格はありませんが、厚かましくも総会、懇親会等に出席させて頂いております。
    そのお礼の意味で、何かお返しを、と言う事で、今日のこの話をすることにしました。
    但し、口下手ですし、何をしゃべるかの持ち合わせもありませんが、大学卒業以来、定年になるまで橋造りをしておりましたので、「それでは、橋の話をしようか」と思いました。
    橋造りと申しましても、本日ご出席の皆様の名簿を見ますと、「橋と言うのは、渡ればいいんだ」と思われる方が殆どではないでしょうか。従って、本日はできるだけ専門用語は使わないようにしたいと思っています。
    ただ、土木の方も見えますし、建築の方もそうかもしれませんが、特に今日は山尾先生がお見えですので「あの野郎、嘘言ってやがるな・・・・」と言うところもあるかもしれませんが(笑)、橋を渡る方々のために喋るつもりですので、その点宜しくお願い致します。
    では、始めます。

    • まず、橋の種類からいきます。(pdf資料-P2参照)
      橋の種類は、ほぼ以下の3種類の分類法があると思われます。
      (1) 機能別…何が渡る橋か、何が通る橋か
      (2) 構造別…どの様な構造の橋か
      (3) 材料別…その橋は何で出来ているか
      (別紙pdf資料の)機能別の鉄道橋とは、ご存じのとおり、JR等の列車・汽車を渡す橋で、普通、鉄橋と言うやつです。
      道路橋とは、普通皆さん方が「橋」と言うやつで、身近にあるもので、車も通れば人も通ります。
      人道橋と言うのもありますが、これは、車は走りません。自転車が通れるようになっているものもありますが、原則、人だけです。従って、横断歩道橋も人道橋に属すると思います。
      水管橋と言うのは、水道管を渡している橋です。水道橋もこの中に含まれますが、この水道橋の場合は、橋自体に、例えば熊本の「通潤橋」のように、水を通します。 ガス管橋と言うのは、ガスを通すものですが、ガス導管橋とも言います。

      次に、構造別につきましては、
      まず、桁橋の場合は鋼、いわゆる鉄板で造った橋も、コンクリートで造った橋も、木で造った橋もあります。今の世の中には、この桁橋が、一番多く、身近なものです。橋には、一番端の部分に支点と呼ばれるものがありますが、両端2つの支点で点を支える構造を単純桁と言います。3つ以上で受けた場合を連続桁といいます。
      単純桁の場合、構造計算は楽です。連続桁になると構造計算が複雑になりますが、長い橋ができると言う利点があります。それと、架設そのものは単純桁の方が楽ですが、連続桁は、長さの他に、重量軽減も可能という利点もあります。
      トラス橋ですが、四角形よりは三角形の方が力学的には強いと言う性質を利用したもので、三角形を横につないでいく構造の橋をトラス橋と言います。トラス構造においては、曲げの力はほとんどかかりません。専ら、圧縮と引っ張りの力だけを考えておけばよいと言う事になります。従って、構造計算が簡単であると言う利点があります。トラス構造そのものは、橋に限らず、私たちの身の回りに見かけられる身近なものです。例えば、送電線の鉄塔もトラスで出来ています。名古屋のテレビ塔もトラス構造で出来ています。それから、軽量鉄骨の屋根材もトラスです。耐震補強もトラス構造になっています

      アーチ橋は、上側に凸の弓なり即ち円弧状の構造を持った橋です。
      アーチの場合には、殆ど圧縮応力しかかかりません。桁橋の場合には、桁そのものの上側が圧縮で下側が引っ張りになりますが、アーチの場合は殆どが圧縮力だけです。ですから、桁橋にくらべたら、剛性が強い、つまり曲げにくい(曲がりにくい)という利点がありますので、同じ長さの橋であれば、断面が小さい、つまり小さいアーチで済むし、逆に同じ断面であれば長い橋ができるという事になります。
      石の橋にアーチ橋が多い(殆どすべてと言っていいくらいですが)のは、石は継ぐことは出来ませんが、石は圧縮には強いですから、ブロック(石材)どうしがずれなくて大きな力に耐えることが出来ます。そういう事に理由があります。
      次に、吊り橋ですが、これは下から支えるより上から吊り下げる方法の効率のよさを利用したもの事です。つまり、下から支える場合には最低4点必要となりますが、上からつりさげる場合には、極端に言えば一点ですみますので、この特徴を生かしています。
      いわゆる、明石海峡大橋などといった場合には、両岸にアンカーボルト、アンカレイジといいますが、これを造って、その間に2本の柱を建てます。これの柱を主塔といいます。片方のアンカレイジから主塔を通して、反対側のアンカレイジまでメインケーブルを渡し、ハンガーケーブルというものを下げます。そのハンガーケーブルに桁を下げます。荷重そのものはハンガーロープで支えますので、歩行者が利用する歩行帯はその部分の剛性のみ保っておけばいい事になります。したがって、吊り橋の場合には通常、主桁と言わずに補剛桁といいます。
      次は、斜張橋です。これは、名港西大橋に代表されるものですが、名港西大橋が完成した後、一時、(この方式が)流行になりました。公園などで疑似斜張橋が当時は盛んに造られました。これも、吊り橋の一種であると思います。と言いますのは、タワーを一本ないし2本建てて、ケーブルを斜めに張り、桁を釣り上げるというか、つり下げるというか、そういった構造です。ただし、この方式は、吊り橋と違いアンカレイジも基礎もいりませんし、吊り橋よりも簡単であると言えると思います。
      次に、ラーメン橋という方式があります。ラーメンといっても、食べる方のラーメンではありません。ドイツ語で「骨組み」という意味の事です。これは、桁と柱が合成されているため、大きな荷重がかかっても、崩れにくいというか、変形しにくいというところから耐震性に優れている、地震に強い構造と言われております。
      この辺りは、後程、写真でお見せしたいと思います。

      次は、材料別についてです。
      まず、木橋、木の橋についてです。
      私は、田舎の出ですので、木橋は近所にたくさん有りましたが、田舎に行けば、今でも木の橋はたくさんあります。木の橋は、大昔から造られてきました。その理由は、木はすぐに手に入ることと、昔は今と違って鉄板は入手困難であったことなどの理由からです。
      ただ、木ですから長いもいのは出来ません。それでも、桁橋もあればトラス橋もあります。
      ちなみに、土橋も木の橋の一種であるといえると思います。作り方は、まず、丸太棒(まるたんぼう)を渡します。丸太棒ですから、凹凸がありますので平らにならすために、土をかぶせます。田舎では凹部に石ころを散らして、土またはコンクリートで固めたりする場合もあります。
      板橋の場合には、土の代わりに板を張ったものです。

      石の橋、石橋、これは今ではほとんど造るという事はありません。ただし、石ですので、耐食性には大変強いですから、古代ギリシャ、もっと以前のメソポタミアの時代からの橋が、いまだに残っていますので、文化遺産としての価値が大変高いものになっています。例えば、長崎の眼鏡橋や、熊本の通潤橋など、文化遺産的な橋があります。東京の日本橋は、文献によりますと明治44年に完成したらしいのですが、日本では最後の石の橋のようです。

      コンクリート橋と言うのは、その名の通りコンクリート製の橋の事ですが、ゼネコンが得意とする分野といえると思います。ただコンクリートだけですと、圧縮には強いのですが、引っ張り耐力は十分の一ぐらいしかありません。したがって、コンクリートの中に引っ張りに強い鉄筋を入れて、コンクリートの引っ張り応力の弱さをカバーします。これはRC橋といいます。最近では、同じコンクリート橋でもPC鋼材に、予め圧縮力を与えて引っ張り応力を打ち消す方式、所謂、プリストレストコンクリート(PC)橋と呼ばれる構造がほとんどです。
      小規模な橋ではRC橋は今日もありますが、今では、PC橋がほとんどです。
      このPC橋が普及したおかげで、今まで難しいと言われていた構造も出来るようになり、価格面からでも、耐食性の面からでも鋼橋はだんだん少なくなってきているのが現状です。

      最後に鋼橋ですが、これは、所謂、鉄板で作った橋です。
      コンクリートに比べれば、比強度が高いですから、軽く出来るという利点が有ります。長い橋や軟弱地盤向きと言えます。鋼橋を鉄橋という方が見えますが、鉄の橋というのはありません。鉄橋といえば、最初に申しあげましたが、鉄道橋の事です。
      なお、この他に、ここには書いていませんが「氷橋(スガバシ)」というのがあります。私は、実物を見たことはありません。氷の橋で、北海道開拓時代に、冬だと思いますが、丸太棒を渡して、それに水をかけて凍らせます。したがって、冬にしか作れないと思いますが、そういう橋もあるそうです。

      この分類のほかに、たとえば一般の道路より高いところ、たとえば名古屋高速道路などは高架橋とも言います。
      道をまたぐ橋を跨道橋、線路をまたぐ橋を跨線橋といいます。
      さらに、これをなんというか知りませんが、たとえば猿などの獣を渡す橋もありますが、これらは、何を渡らせるのか、あるいは、立地条件などに従って橋を分類したものと言えると思います。

      以上の分類に従いますと、私は、鋼橋、いわゆる鋼の板を加工する橋に関わってきました。
      従って、以降は「鋼橋」の話しをします。

    • 今ここ(pdf資料-P3)に示しましたものが、一般的な橋ですが、連続桁、二径間連続桁というものです。ここが連続桁で、こちらが単純桁と言う事になります。
      三径間連続桁になると、間に柱が二本建ちます。七径間連続桁というものもあります。
      この区間がトラス橋になります。ここが支点と言われるところですが、支点と支点の間をスパンと言います。
      下の図はアーチ橋です。

      桁橋の断面を示したものがこの図(pdf資料-図4)です。
      我々は、ふつうこれを「鈑桁」と呼んでいます。ただし、現在の桁橋には、この図のような支承(ピン支承とも言いますが)は使いません。
      昔は鋳物にベアリングプレートを張った支承を使っていましたが、今は、特に阪神大震災以降は、ゴム製の支承に変わってきています。
      主桁は原板(ウェブ)とフランジを合わせた部分の総称です。また、リブ(補剛材)は、実際は(図と異なり)外部には張り出していません。図は、分かり易さを強調するためにこのように書かれているものと思われます。
      主桁と主桁は横桁によって繋がれています。

    • 次に、鋼橋の作業系統についてお話をします(pdf資料-P5)。
      橋は道路の一部ですから、発注者による道路計画、環境・地質調査などから始まります。そして発注となりますが、私たちが、受注する場合、二通りの設計方法があります。 一つは、発注者の方で概略設計だけを終えたのち、発注される場合です。これは受注者が詳細設計を行い、発注者の承諾を得ます。
      二つ目は、詳細設計まで終えて、発注される場合です。詳細設計まで終わっている場合は、受注者は結果をチェックするだけです。疑義点があれば、発注者にその内容について協議して解決します。

      その後、原寸という工程に入ります。(pdf資料-図6)
      鉄骨屋さんは現在の「現」、「現寸」という言い方をする場合もあるそうですが、橋の場合は「原寸」で統一されています。
      工場で橋桁を造る際に、図面を見ながら造りません。すべて原寸の資料を元に造ります。従って、原寸の役目というのは、製作に必要な資料の作成と言う事になります。 あともう一つ、大事なことは、設計図というのは縮尺されていますので、これを、一分の一に書き直して、取り合い関係のチェック、製作上不具合がないかのチェック、
      現場架設に関するチェック、例えば、ボルトが確実に締める事が出来るかどうかの確認なども行われます。
      このように、原寸の資料によって工場は造っていきますから、工場内での誤作は殆どなく、原寸段階での誤作が100%と言ってよいくらいです。反面、原寸のやり方で工数の増減に影響します。ですから原寸という過程は工場製作では一番大切なところと言ってよいです。
      あとフローチャートの上に材料手配と書いてありますが、設計図から鉄板なり形鋼なりの材料手配に入ります。橋の場合は、鉄板の幅、厚さ、長さに関して、JIS規格に比べると、マイナス側の寸法公差を特に厳しく規制しています。JISの許容値の半分くらいになっています。
      一般に「12oの板」といった場合、ミルメーカーは殆どの場合12oより厚い板では作りません。殆どが、12oよりマイナスです。売るのは12oで計算しますので、枚数を多く作れば作るほど、その分ミルメーカーにとって得になります。橋の場合には、JIS規格の許容値より厳しくなっていますので、橋の場合の鋼板の材料手配は全部オーダーメイドになります。

      フローチャートの中で四角の枠で囲まれた部分と、半円で囲まれたところとがありますが、発注者の立会検査が行われるところを示しています。省かれる場合もありますが、社内自主検査として検査報告書は提出します。
      もちろん、その他でもセルフチェックを行いますが、発注者にそのことを報告することはありません。
      原寸展開や材料手配が終了した段階で、一旦、原寸検査、材料検査が行われます。
      そのあと、罫書き、切断工程へと流れていきます。
      まず、罫書き工程ですが、今では罫書き作業もNC化されていて、NC罫書き装置という設備で行われています。昔は、大工さんが使う墨壺を使って、手作業で罫書き作業を行っていました。小さい部品、部材の場合は、原寸で作ったフィルム型に従って罫書、切断しておりました。一方、大きな部材、たとえば先ほどの腹板(ウェブ)などの場合には、原寸で作った定規というものを使って罫書きます。
      そして、この間に板継ぎという工程がありました。と言いますのは、昔は「トン幾ら」の発注が一般的でしたので、出来るだけ軽くするというのが何より大事でした。その結果、板厚なり板幅をモーメントの計算値に合わせるため、やたらと板継ぎを行う必要がありました。
      板継ぎを行うと、開先を行う必要が出てきます。また、エックス線検査によって板継ぎ箇所の品質も確認しなければなりません。昔のように、人件費が鋼材費に比較して安い場合にはいいわけですが、今日のように人件費が上がってくると、この板継ぎという工程の負担が大きくなってきます。そのために板厚の厚い方に統一して板継ぎを省略するという方法を発注者に承諾を得て、板継ぎの省略しておりましたが、今では、板継ぎというのは、ほとんどなくなってきています。
      切断作業は昔から、自動作業で行ってきました。手作業はまずありません。何故かというと、切断面の面粗度に関する品質規定がありますので、手作業による切断の場合、切断面にグラインダー作業を行う必要が出てきて、二重手間になってしまうわけです。ただし、現在では、自動切断機はもっと能率化されて同じ自動でもNC化し、ガス切断だけではなく、プラズマまたはレーザを使っていて、作業速度も速くなってきています。
    • 次は「孔明け」です。
      孔開けは、昔は、ラジアルボール盤などを使ってやっていましたが、今は、NCボール盤で速く、正確に加工できるようになりました。
      私が入社したころは、まだ、リベットがありました。
      リベットの場合は、高力ボルトの摩擦接合に比して、支圧接合です。穴の加工精度が厳しいですから、例えば、φ22oのボルトの場合、φ21.5mmの径で下穴を明けます。次に、仮組立で部材を合せ、最終的にφ23.5oに仕上げるわけです。これを孔刳り(アナグリ)と言います。と言いますのは、リベットの場合は、ご存じのとおり、リベットをコークスで真っ赤に熱して閉じ合わせます。孔がずれると、切欠きができて、品質不良の原因になります。そのために孔クリという作業が必要になります。その点、高力ボルトの場合は摩擦接合ですから、板と板の摩擦力で接合します。この穴径についても、通常φ22oの高力ボルトに対して孔はφ24.5oになっていますし、その分、楽になっていると言えます。ただし、孔径やズレの基準、規定も勿論あります。

    • 次に「組立て」に関しては、今でも人力での組み立てが一般的な作業となっています。

    • 「溶接」に関しては、今では炭酸ガス溶接が主流ですが、一寸前までは、被覆アーク溶接棒が普通でした。
      何故かと言うと、鉄骨屋さんは炭酸ガスを使い慣れている訳ですが、橋梁業界では発注者の溶接に関する要求品質が厳しくて、昔の炭酸ガス溶接のソリッドワイヤでは満足する品質が保てません。その後、複合ワイヤというフラックス入りの芯線が登場します。複合ワイヤで溶接するとビードがきれいに仕上がりますので、これによって、橋梁に炭酸ガス溶接が採用されるようになりました。と同時に溶接作業の自動化が可能となり、今では自動溶接装置、ロボット溶接装置が主流となっています。

      鋼橋は溶接構造物ですから溶接の熱による歪みが生じます。例えば、座屈防止のためのスチフナーを溶接すると溶接による熱が冷める時に収縮が生じて、歪が生じます。形状的な類似性からやせ馬と言う人もいますが、その許容値が250分の1、即ち、高さ又は幅1mで4mmしか認められません。このために歪み取り作業が必要です。ガスバーナなどで焼いて、熱歪のバランスととるなどの工夫も行われます。歪取りの仕事は計算ではありません。職人芸、名人芸の仕事です。下手な者がやると逆に不具合が生じます。最近は名人芸を止めてプレスによる歪み取りが主流になっているようです。

    • 橋作りの特徴は、仮組立を行うということです。つまり、工場で部材が出来上がったら全て組み立ててみて、現地を再現します。不具合がないか設計図どおりに出来上がっているかを確認します。主要部分の寸法、形状を確認します。
      具体的には、まず、部材長ですが、これが10m未満ですと、±2o以下、10m以上で±3o以下になるように製作しなければなりません。そして、これを仮組立で継いだときは±(10+L/10)o以下にならなければなりません。例えば、100mの橋では10mの部材が10ブロックだとすれば累積値が±30oと言う事になります。しかし、継いだ後の許容値は±20mmで厳しく制限されます。組み上げた桁どうしの間隔、その場合の対角寸法、レベルすなわち高さ関係、現場継ぎ手の隙間、桁の鉛直度など厳しい許容値があります。それら諸々の確認がなされます。せっかく仮組立で組み上げておりますから、現地でも再現できるような工夫もなされます。
      ただ、現在は桁橋などの一般的な橋は、仮組立は省略するようになっています。ブロック毎にコンピューターで計測して、そのデーターをもとにシュミレーションするというやり方です。

    • フローチャートに従って説明しますと、次は塗装です。塗装面積に見合うだけの塗料を手配します。塗料を手配したのち塗料検査を行います。塗料検査に合格した場合、発注者によっては合格ラベルを張る場合もあります。一般には、塗料メーカが発行する品質証明書でもって確認しますが、サンプリングして塗料協会で確認検査をやる場合もあります。
      それが終わると、塗装を行います。鋼橋の一番の欠点は錆です。錆びないように、出来るだけ塗り替えのインターバルを長くするために高品質の塗料が年代と共に開発されております。今は最長20年ぐらい長持ちする塗料もあると聞いています。また、耐候性鋼板、錆で錆を防ぐという鋼板も一般化され、亜鉛メッキの橋もあります。

    • 最後に、橋造りを40年近くやっていますと、北海道から沖縄まで私の関わった橋があります。今日のために、たまたま、茨城県の家の近所で撮った写真を紹介します。
      • この橋(pdf資料-図13)は新神宮橋と言います。茨城県の鹿嶋市と行方市を結んだ橋です。下は川ではなく、湖です。「霞ヶ浦」と言う大きな湖です。霞ヶ浦は4つ湖を併せて霞ヶ浦と言いますが、これはそのうちの北浦という湖を跨いでいる橋で、長さは1000m、1qあります。7径間連続が4連です。この橋の特徴は、普通はこの大きさの橋では主桁を4本並べるのですが、2本しかありません。その代り、鉄板が厚くなっております。材料費は高くなるけれども、それ以上に製作費が安いという省力化桁と呼ばれている橋です。また普通、床版と言えば、型枠を張って、鉄筋を並べて、コンクリートを流すのですが、合成床版を採用しています。合成床板にもいろいろなパターンが有りますが、これはそのうちのサンドイッチ床板と呼ばれるタイプを採用しています。
        この道路は国道51号線のバイパスです。鹿嶋市でサッカーのワールドカップが開催されたとき、このバイパスが出来ました。新神宮橋と言いますが、伊勢で神宮と言えば伊勢神宮、名古屋で神宮と言えば熱田神宮ですが、茨城県で神宮と言えば鹿島神宮です。

      • 今、紹介しました新神宮橋から5q程東側にいったところです。これは厨橋と言います(pdf資料-図14)。これがラーメン橋です。この橋も51号線のバイパスです。 この橋から南へ100mも行かない所から谷になっています。その谷底にJR鹿島神宮駅が有ります。そこからすぐ上に登っていて、上がりきったところに鹿島神宮があります。

      • これは、潮来大橋側道橋と言います(pdf資料-図15)。下は、霞ヶ浦の西浦と言うところから流れてきている常陸利根川で、橋の長さは320mあります。元々、古いコンクリート製の橋あるのですが、そのコンクリート橋は歩道と車道の分離が無いので歩行者が危険だと言う事で、歩行者専用の橋を横に造ったわけです。
        この橋の特徴は、人が通ると、センサーが働きメロディー(ご当地ソング)が流れることです。曲名は、一つが「潮来笠」、歌手は橋幸夫さんです。もう一つは「潮来花嫁さん」、歌手は花村菊枝さんです。この橋の開通式に花村菊枝さんがテープカットされました。森重久弥さんが歌う「俺は河原の枯れすすき・・・」の「船頭小唄」も流れます。

      • この橋(pdf資料-図16)は、常磐高速自動車道路の上に掛かる上土田橋と言います。二径間連続の桁橋ですが、耐侯性鋼材を使用しています。
        耐候性鋼材を使う場合には、2種類の使い方があります。一つは「裸仕様」と言うもので、表面処理を何もやりません。しかし、この橋の場合には、錆安定化処理というものが行われています。理由は、耐候性の場合、錆安定化効果が出るまでに錆汁が流れ出して橋台表面などを汚しますので、それが嫌だと苦情になる場合があるからです。またこの橋は関東地区で第一号の耐候性鋼板を使った、錆安定化処理を施した橋です。
        もう一つのこの橋の特徴は、下を高速道路が橋桁に対して45°の角度をもって走っている事です。そのため、ここに脚と言うものが有りますが、この脚も桁に対して45°の角度をもって立っています。結果的にこれは隣り合う桁で撓み量の差をもたらします。撓み量の差は、桁の傾きにつながります。発注者はその予防策を要求します。ただ、この橋の前に同じ構造の橋を作った時の報告書を見せてもらったのですが、「倒れる分を見越して、長穴(楕円)にする」と言う対策を行ったようですが、結果は期待外れの結果だったようです。それならば、倒れるのなら前もって反対側に倒しておけばと考えました。この考え方は、今でこそ「プレ・ツィスト工法」というネーミングも付けられるほど、広く知られた定石工法となっています。

      • これ(pdf資料-図17)は、先ほど(最初)の新神宮橋と同じ北浦の真ん中付近に架かっています。北浦大橋と言います。こちら側に3径間連続の桁橋が2連あります。向こう側には3径間連続の桁橋1連と4径間連続連の桁橋1連があります。その間にアーチのランガー橋が5連架かっています。湖に架かる橋で一番長い橋は琵琶湖大橋ですが、この橋はそれに次ぐ2番目に長い橋です。

      • これは(pdf資料-図18)茨城県の古河市(に架かる橋)です。向こう側は埼玉県になります。新三国橋と言います。川は見えませんが渡良瀬川が流れています。形式はニールセンローゼ橋と言います。アーチ部分が700m、全長は約2500mあります。この橋の塗装色のデザインは発注者の方でデザイナーに特別依頼して決まりました。橋の外側はブルー、内側はグレーになっています。裏側ももちろんグレーですが、横構の片方はブルー、もう一方が赤色となっています。それと、アーチ部分は真っ直ぐ建っているものが一般的ですが、この橋の場合、若干内側に倒れています。その辺りが、特徴と言えば特徴です。また、ニールセンローゼ橋の一連と言うのは珍しいものでなく一寸探せば有りますが、5連並んだ橋と言うのはここだけだと思います。
        尚、この橋の竣工検査の際、ここから富士山が見えておりました。直線距離で約100qはあると思われますが、「ここから富士山が見えるとは、富士山は高いのだなー。関東平野は広いのだなー」と思った記憶が有ります。

      • 最後のこの橋(pdf資料-図19)は、茨城県ではなく九州のものです。黒崎開橋と言います。今、有明海沿岸に沿って道路を建設中です。地元では某政党の大物政治家の名前を冠して○○道路等と言っていますが、真偽のほどは定かではありません。3径間連続と4径間連続の各1連より成る桁橋です。橋自体は特に珍しい橋ではありません。自動車専用道路の橋です。今は、熊本・福岡両県境の所から北は柳川市の一部まで開通しています。
        何故これを持ってきたかと言うと、私の橋梁設計の仕事の最後の作品だからです。そのことを最後に紹介したいと思った次第です。
    以上、御清聴ありがとうございました(拍手)。







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今回、平成23年6月25日の中部支部総会において、5回目の試みとして栗原 清二様(教授・物質生命化学)と古寺 実 様(昭和60年・金属工学科卒業)の3名に、熊大工業会の現状や日常業務に関するテーマで、それぞれ講演をしていただきました。絵(パワーポイント資料)と動画(ビデオ)を用いて、約10〜15分程度行われた各講演者の講演内容の概要を以下に掲載します。
平成20年度〜22年度の各中部支部総会において行われた講演内容につきましても併せて掲載してあります。

    
熊本大学工業会・平成20年〜23年度の各講演の要旨
栗原教授の講演要旨(H23)古寺様の講演要旨(H23)
松島教授の講演要旨(H22)/ 中西教授の講演要旨(H22)浦川様の講演要旨(H22) 岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21) 岡部先生の講演要旨(H20)  宇対瀬様の講演要旨(H20)
  • 【平成23年度】栗原教授の講演要旨

    015
    物質生命化学科教授の栗原先生は、本日の中部支部総会への招待に対する謝辞表明の後、本総会出席への出席が急遽決まった後、お忙しい中ををわざわざ大学内を回って撮影して頂いた写真をもとに、黒髪南地区キャンパス内の主な建物に関する説明を中心に、母校・熊大工学部の現状を紹介して頂きました。講演内容の要旨を抜粋すると次の通りです。
     本日はお招きいただきましてどうもありがとうございます。物質生命科学の栗原と申します。
    まずお招きいただいたお礼と、もうひとつはお詫びをしなければいけないのですが、最初は本学科の国武雅司教授が来る予定だったのですが、他にどうしても出席しなくてはならない所用(ヒヤリング)ができてしまいまして、急遽私が出席する運びとなりました。どうぞご了承ください。
     どのようなご挨拶をしようかと思ったのですが、昨日、熊本大学工学部のキャンパスを回って写真を撮ってきました。この後、大谷先生が、最近の大学の状況についてまとまったお話をして頂けると思いますので、私は最新のキャンパスの様子を、写真を使って簡単に紹介したいと思います。
     これは工学部の資料館です。平成6年に国の重要文化財に指定されましたが、機械技術部の方たちが調整して、機械は今でも動いている事は皆様ご存知の事と思います。これは、卒業生の皆様の寄付によって建てられた百周年記念館です。非常に稼働率が高く、ほぼ毎日シンポジウムや会議等で使われています。非常に重宝しています。
    この写真は、工学部1号館です。遠目には良くわかりませんが、再開発の結果、以前とは少し変わっています。建物が綺麗になしましたし、耐震化工事なども行われた結果、内部がかなり変わりました。こちらは3号館で、以前は化学系の建物でした。私も10年ほど前までは、この中で研究をしていました。耐震化工事などで外観も中身も以前とはだいぶ変りました。こちらが2号館です。講義などで皆さまも使った事と思います。
     省エネへの取組は、大学だけでなく全国的にどこでもやっているとことと思いますが、熊大でも省エネ対策を強く勧めています。消費電力節減のために、自動ドアをあけっぱなしにしたり、エアコンの代わりに扇風機を使ったり、エレベータの一部を停止したりしています。私ども物質化学科の建物では、以前は上下2階は歩くようにと言う貼紙をしていたのですが、最近では上下3階は歩くようにというように変わりました(笑)。
     最近一寸変わった話題といたしまして、スマートグリッド構想が有ります。熊本県には太陽電池メーカが多数あります。機械、マテリアル関係学科が入っている1号館では太陽電池で発電を行っており、太陽電池パネルで運用状況をモニタリングしています。
     また、マグネシウム合金については県との連携と言う形でキャンパス内に実際の工場に近い建物を建てて、操業しています。以前は無かった新しい試みとして、この中には熊本県と企業の地域連携で研究プログラムが進んでいます。
     これは、元の工学部図書館ですが、いまは学生ラウンジ(ルポゼ:Repozer)として学生や教員のためのスペースとして開放しています。私が昨日2時過ぎに写真撮影に行った折も、パネルの光景のように学生たちがくつろいでいました。
     これがForico(フォリコ)です。以前は「森の家」と言う名称の食堂が有ったのですが、現在はこのように大きくてきれいな建物が建てられ、食堂と生協が入っています。私もしりませんでしたがForicoの名前の由来は”「理学部」と「工学部」のために”と言うことらしいです。

     このような形で、大学環境美化に向けハード面からいろいろと取り組んでいますが、最近の興味深い一つの学生活動として「マナーアップキャンペーン」があります。これはキャンペーンポスターですが、建築学科の学生のデザインによるものです。学生自らの手でキャンパス美化に取組んでいます。これは元々、学長と学生の懇談会の中で出てきたマナー問題の話題の中からのアイデアに基づくものだそうです。教員と学生が一緒にキャンパス内を巡視しながら、よくない点があれば少しずつ手を加えているということです。100周年記念館にはポスターが貼って有りますし、施設内の所々にゴミの分別収集用の容器が設置されています。又、例えば駐輪場の場合、以前は写真のように乱雑に置かれていたのですが、カラー塗装と線引きで駐輪スペースを明確にして、学生の駐輪マナー向上を促しました。これに伴う見回り活動も教職員・学生の連携で行っています。

     最後に、最近の進路の件ですが、おかげさまでほぼ100%の就職率で推移しています。卒業生の皆様の実力が社会的に評価されている事が、現役学生の就職状況にも反映されているということで、この場を借りまして感謝申し上げます。最近の状況はどうかといいますと、私は今年物質生命科学科の就職担当をしているのですが、昨年の状況と比べてみました。今年は東北地方の大震災等の影響が悪いほうに出るのではないかと心配していましたが、様々なデータを比較・分析してみてもさほど大きな落ち込みは無いようです。これも皆様の日頃のご支援のおかげであると思います。私たちはこれからも優秀な学生を育てるために頑張って生きたいと思いますので、今後ともご支援・ご協力のほど宜しくお願いします。

    以上です。


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    以上の、内容につきましては以下のPDF文書も併せてご覧ください。
    「キャンパスの風景(3Mb)」


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  • 【平成23年度】古寺様の講演要旨
    031 中部支部総会の恒例となりました、卒業生による講演の今回の講演者として、金属工学科昭和60年卒業の古寺様にお願いしました。本日は、活、知製鋼の歴史や創業者・豊田喜一郎様に関するエピソード等々、興味深いお話を披瀝して頂きました。以下に、その要旨を談話風にまとめて掲載しました。

    昭和60年に金属工学科を卒業した古寺です。現在、愛知製鋼鰍ノ勤めています。
    今日は特別講演と言うことで、少し話をさせて頂きます。
    愛知製鋼鰍ヘ創立70周年を迎えておりますので、その歴史にも触れながら、テーマの「温故知新・先人に学ぶ」と言うことで話を進めさせて頂きます。

    本日お話しする内容ですが、まず温故知新の新と言うことで、愛知製鋼の現状の概要、それから製鋼プロセスについて、3分間程度にまとめたビデオに基づき話をします。
    70周年と同時に、粗鋼生産4000万トンも達成していますので、その間の歩みについてもここで紹介します。
    それから、温故知新の故のところで、先人に学ぶということで創業者と元常務の方の2名に的を絞って紹介させて頂きます。
    以上は、愛知製鋼の縦の関係ですが、横の連携についての「熊鋼会」という熊大卒業生(主に鉄鋼業)のつながりについても話をしたいと思います。

    まず、愛知製鋼の規模ですが、資本金250億円、従業員2300名、外注先を入れると3300名ぐらい、売り上げは連結で1740億円くらいです。
    作っているものですが、特殊鋼と言うことで、丸棒、線材、角材、バネ材などで、大半が丸棒材で、これが約90%以上を占めています。バネ平と言うのは、平板を重ねてバネにしたもので、トラックなどに使われるものです。私共が約95%のシェアを占めています。
    以上の製品を母材とした加工製品も作っておりまして、クランクシャフトやリングギヤなど、いわゆる自動車の足回り部品を作ってございます。これが売上高全体の約35%ぐらいを占めています。先ほどの特殊鋼条鋼が一番多くて売り上げ全体の45%ぐらいです。鍛造品の国内生産量は約300万トンですが、その約10%を弊社が作っており、シェアは国内トップです。
    近年急激な成長を見せ、現在世界で最も鍛造品の生産量が多いのは中国で年間約500万トン作っています。
    それから、ステンレスも作っておりまして、量的には6〜7%レベルですが、単価が高いので売上高からいうと15%くらいを占めています。特に形鋼と言われるH型、I型、チャンネル或いはアングルなどでは当社のシェアは60%ぐらいで、こういったところを主力に作っております。
    鉄以外では、これまで主に磁石関係の製造をしていました。最近、感度約1万倍のセンサーを名古屋大学と共同開発しました。世界的に有名な携帯電話メーカのノキア、国内のソフトバンクなどでセンサとして採用され始めて、年間数百万個のオーダで作るようになりました。但し、なかなか儲かりません(笑)。儲けるのはこれからと言う状況です。
    生産の拠点は知多半島の付け根に位置する東海市に、本社・知多工場が有ります。熊大の卒業生は愛知製鋼に現在12名いますが、本社に8名、知多工場に3名配属され、それぞれが活躍しております。
    海外は、鍛造関係を主にアメリカ、アジア方面に進出し工場を操業しています。電磁関係はヨーロッパに進出しています。熊大の唯一の機械科出身者・橋本君はいまフィリピンの鍛造工場に行っていますが、元気にやっているということで、熊大卒業生もグローバル化してきました。

    次に製鋼プロセスについて、お話しします。3分程度のビデオがありますのでまずご覧ください。…・内容省略

    今見ていただいたビデオの中で、製鋼というのは鋼を溶かして固めるまでの工程を言います。これはマテリアルフローです。鉄を作るには、鉄鉱石を原料にする場合もありますが、私共の原料はスクラップです。当社では、年間80万トン社内で製造し、他社から約30万トン程度の鋳片を購入しています。出てくる製品が84万トンで、約2割は屑になってしまいます。但しこの屑になったものもリサイクル原料になります。つまり、資源循環型の製鋼プロセスであります。
    但し、副産物として酸化物も、約20万トン程度の量が排出されますので、リサイクルしてアスファルト材、いわゆる路盤材等として有効利用を進めています。先般の宇対瀬さんの講演で出てきたコンクリート骨材への活用などは、その活用事例の1つであります。
    ビデオでもちょっと見ていただきましたが、当社は、電力を大量に使用する電力投入型の溶解炉でスクラップを溶かします。この溶解炉は、ご家庭で1年間に使用する電力をわずか1分で消費するという、ちょっと想像できないくらいの大電力投入型電気炉であります。
    次は、粗鋼4000万トンの歩みと言うことで簡単に説明させて頂きます。
    私共の会社は2009年に粗鋼4000万トン生産を達成しましたが、元々は1940年に豊田製鋼鰍ニして創立されました。
    創業者は豊田喜一郎で、「良きクルマは良きハガネから」という信念で豊田製鋼を作りました。元々、トヨタ自動車を創立された方が豊田喜一郎氏で、その時「クルマは素材から作らなければならない」と信念のもと、同時期に創立されたのが豊田製鋼です。つまり、豊田製鋼とトヨタ自動車は、兄弟会社であります。
    これは創立当時の電気炉です。先ほど見ていただいたのは150d電解電気炉でしたがこれは2d電気炉です。これは、鋳型と言われるもので、このようなケースに入れて固めます。
    これは、電気炉ではなく平炉と言うものです。それから1982年、私が入社する3年前ですが、先ほどビデオを見てい頂いた製鋼プロセスが社運をかけて導入されました。溶解炉、次の取鍋精錬炉で温度コントロールと成分コントロールして、それから酸素、水素、窒素等のガスもppmオーダでコントロールします。最後にクリーンな溶鋼を固めるという複合製鋼のプロセス化を図りました。
    2009年に生産量が4000万トンに達したわけですが、この累計推移グラフで見る通り、初めて500万トンに達するまでに実に32年かかっています。その後、プロセスの改革などを行い、1000万トンには約8年で達し、数倍のスピードで生産量が増え、70年目で4000万トンに達したわけです。
    これが4000万トンを達成した時の写真です。新聞社に出した写真で、私はここに写っています。
    それから、2011年、今年ですけれど、連続鋳造設備、先ほどのビデオでもありましたが、最終工程の溶鋼を固めるところの設備を更新してございます。5月に動き始めました。稼動後30年間経過したのでして、老朽化更新をしました。総費用250億円です。ここで建設の操業リーダーをやっているのが八明君です。中部支部総会で場を盛り上げてもらっていましたが、今は非常に忙しく、今回も出席できませんでした。

    次からが本題の「先人に学ぶ」と言うことで、まず、豊田喜一郎・創業者の事について少し触れたいと思います。これには、トヨタグループ各社の設立年代が書かれていますが、元は、創業者豊田佐吉が1926年に豊田自動織機を立ち上げました。ここから、豊田佐吉の長男・豊田喜一郎が自動車をやろうという時に、「良きクルマは良きハガネから」と言うことで豊田製鋼ができたわけです。本日の出席者の中にもデンソーの方や、アイシン精機の方、そしてもちろんトヨタ自動車の方もいらっしゃいますが、このようなつながりでトヨタグループはずっとやってきたということです。愛知製鋼は、グループの中では規模的には小さいですが、歴史は古いということです。
    私は、3年前知多工場に工務室長として異動した時、工場長に最初に言われたことは「歴史館を作れ」と言うことでした。愛知製鋼は伊勢湾台風のとき、いろんなデータを含め、みんな流されましたので、歴史のあるものがなくなってしまいました。手作りでよいから歴史資料館を作ろうということで、100万円を予算として自前で歴史館をつくりました。
    そんな中、色々模索した結果出てきた物の一つが、「自動車と製鋼工業」、豊田喜一郎が出したものです。これは昭和15年、豊田製鋼設立時のものです。70年前のものです。ページをめくってみると、書かれていることは「豊田製鋼設立の意義」と言うことです。「アメリカの自動車工業と言うのは、デトロイトの鉄鉱石があって、これからいい鋼ができて初めていい車ができている。日本では作ることはできない。」とう話を聞いたとき、喜一郎は「そんなバカなことはない。我々は製鋼技術でこの資源的不利を克服していく」「日本人には、これを成就する義務がある」と言ったのです。すごい志ですね。これが発端となって、豊田製鋼を作らなければならんなー、と言うことになったわけです。

    それでは、自動車技術に必要な鋼材技術とは何かと言うことですが、加工性だとか、材質が均一で歪が少なくて、寸法が正確で安くて…と言う、ある意味当たり前の事なのですが、当時、製鋼の作り方について全く知らない人ですからね。トヨタ自動車もその時はまだヨチヨチ歩きの状態で、本当に日本で作れるのかと言う中で、こういうことが大事だと言っているわけです。今もこういうことで愛知製鋼はやっています。均質な材料を極めて大量に作るという技術は、当時まだ、日本にはありませんでした。アメリカでは、自動車用で先にそのような技術を確立したうえで、兵器への応用ができたわけですが、日本では兵器を中心に発展していましたから、ここから大量生産型のプロセスを作っていかなければならないということで、そういうのは日本には全くなかったわけです。すべてが一からやっていかなければならない、鋼も一からそういうものを作り出す会社を作っていかなければならないということで、豊田製鋼を作ったわけでございます。
    これは当時の「トヨタグループ体系図」の概念図です。トヨタ自動車がここにありますが、先ほど言ったように、同等の位置と言うことで豊田製鋼がここです。もう一つ、ここは昔、豊田工機と言うグループ会社がありました。自動車を作るには、良い材料と共に、良い加工工場がセットでなければならないということです。後は、いろいろな関連製品も作っていかなければならないということで、その中で、ガラスだとか繊維だとか電気だとかありますけど、これがいわゆるデンソーでありアイシン精機であり豊田合成といろいろあるわけです。その当時すでにこのような体系を作り、現在その通りになっているという言う点、自動車なんて作れるのかと言う状況の中でしっかりしたビジョンを描いて、しかもその後、その通り進んでいるということはすごい事だなと改めて感じました。
    そのようないきさつから、豊田製鋼が対岸の近いところ、知多半島の付け根に、昭和15年、資本金1700万円で10万坪、現在の約3分の1、を買収して立てられました。
    その時に、トヨタ自動車の生産数を、もちろんこれだけ作るぞと言う高い目標を立てて、それをベースに設計するわけですが、将来は日本の自動車用特殊鋼のすべてをここで生産するという計画で立てたということです。何とも壮大な計画であったのです。
    豊田喜一郎はそういった大きな志を持った、いろいろ考えることのできる人だったということです。

    次は岩越さんと言う、元常務の方についてです。この方は九州帝国大学を卒業された方で、現在95歳です。95歳と言うことは大正3年生まれ、この年どういうことがあったかと言いますと、第1次世界大戦勃発、それから桜島が大爆発して、東の大隅半島と繋がったという、何か想像できないくらい昔に生まれて、昭和15年に豊田製鋼が作られたとき入社された方です。講演される半年前ぐらいに突如見えられて、私も知りませんでしたが、「製鋼を見せてくれ」と言うことで、私もご案内しました。その後、講演されたりしまして非常に元気な方だなと思ったのですが、その後、半年ぐらいして急にお亡くなりになりました。その当時は非常に元気で、90分間の講演中も「立ったままの方が声がよく通りますから」と言うことで、ずっと立ったままお話しされました。電気炉課長などを歴任され、最後は常務になられた方です。
    この方が、豊田喜一郎副社長(当時)について語られたことですが、「入社したての見習いの私が岩越君と呼ばれて驚いた」と言うことでした。つまり副社長が見習い社員の名前もちゃんと憶えていて声までかけてもらったことに非常に感銘を受けたということでした。当時、岩越氏は色々とやっていて、何事もうまくいかず失敗続きだったらしく、怒られるだろうと覚悟していたのですが「初めてのことに挑戦しているのだから百や千の失敗は気にするな。ただ、失敗のデータは改善して次に生かせよ」という主旨のことを言っていただき、非常に感銘を受けると同時に、「俺は一生、豊田製鋼で頑張るぞ」と心に決めて頑張られたそうです。喜一郎さんは、豊田製鋼・知多工場の生産量を100万dにするという構想を持っていました。100万dは最新設備をもって、最近やっと実現した生産量です。将来は、厚物の鋼板も作れるので豊田丸の船を作れと言ったそうです。つまり、鋼を作り、それで自動車を作って、作った自動車を自社の船で運ぶという、それくらい大きな夢を持っていた、スケールの大きな方だった訳です。
    創業時のメンバについては色々と語られていましたが、その中の一人がN製鋼所の深田さんと言う方です。当時は戦艦の砲身の焼き入れをできるのはN製鋼所だけと言うことで、その熱処理技術をお持ちの方でした。D特殊鋼におられた時に、そこから喜一郎さんが引き抜かれたということです。何もないところからの出発にあたって、このように人材を集めて、豊田製鋼は成り立ってきたということです。モノづくりは人づくりがトヨタのモットーですが、まず人づくりからきっちりやられたということです。

    岩越さん本人は、当時はまだ工場規模も小さく何もやることはなかったそうですが、3か月目にいきなり出鋼責任者を命じられたそうです。出鋼責任者とは何かと言えば、溶かした鋼を鍋に入れるわけですが、その時本当に入れて良いかどうか、間違って入れますと屑になってしまいますから、その責任者、判断をする仕事です。溶けた鋼、溶鋼を少し固めてその破面を見て、0.01%の単位で、これは何%だと間違えず判断するわけです。それから、コバルトレンズを通してみると、溶鋼温度と言うのは1600℃程度では白く見えるわけですが、その白さ・明るさで温度を判定するわけです。当時は周りにもそのようなことをやったことのある人は全くない中で、この方は大学を出たばかりで、いろいろなことを試行錯誤で大変苦労されてモノづくりにかかわったということです。技術はもちろん大事だが、勘も必要で自信を持つことが大事と、このようなことも言われていました。
    「自分の専門分野はもちろんだが、専門以外の事もよく勉強し、人間を磨くように」と言うコメントもしていました。このように、大変苦労しながら、今の愛知製鋼を立ち上げてくれた方でありました。

    最後は「絆」と言うことで、熊鋼会と言う組織について少し触れさせて頂きます。
    この熊鋼会とはどのようなものかと言うと、「本会は製鉄・製鋼に縁あるものが集って、将来の鉄鋼界の意見交換を先輩、後輩を交えて行うことを目的とする。来る者は拒まず、去る者は追わず」と言う方針で運営される団体でございます。
    創設は昭和62年、その時の役員名簿があります。会長はすべて採冶出身の方です。ニッコーの有働さんが初代会長です。熊大の本田先生(金属工学科)をオブザーバとしてお迎えして、ここに創立しました。
    熊鋼会では宇対瀬さんが平成7年に第3代目会長になられたということですが、平成14年第27回開催を最後に、一旦、会が途切れ約5年間経過します。このまま解散かと思われたのですが、若手の中から、再開の機運が盛り上がり、大阪で決起集会を行いました。その時、新会長に選任されたのが私です。いろいろと諸先輩のご了解も得たうえで第28回の開催を迎えたということです。
    直近は第31回、5月に山陽特殊製鋼さんで開催して、この時に熊大の安藤先生をお呼びしました。
    現在は13社、52名で若手を中心に横の組織を強化しており、運営を継続しています。

    本日、言いたかったメッセージは「熊大健児よ大志を抱け」
    色々と話にも出ましたが、大きな夢を持てと言うことです。その夢の達成のために人間も磨こうということです。本日の話をさせて頂いたように、先人の教えに触れることは非常に有意義であります。この中部支部会も、ある意味そういう場だと思っております。そういったところもうまく活用、活性化していき、今後益々、中部支部会が発展していくことを祈念して、本日の講演を終わらせていただきます。
    御清聴ありがとうございました(拍手)。


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熊本大学工業会・平成20年〜22年度の各講演の要旨
松島教授の講演要旨(H22)/ 中西教授の講演要旨(H22)浦川様の講演要旨(H22)岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21) 岡部先生の講演要旨(H20)  宇対瀬様の講演要旨(H20)
  • 【平成22年度】松島教授の講演要旨

    08
    情報電気電子工学科教授の松島 章先生(ご自身も、昭和55年度熊大工学部電気工学科卒業生です)には、本日の中部支部総会に対する招待に対する謝辞表明の後、黒髪南地区キャンパス内の主な建物に関する説明を中心に、母校・熊大工学部の現状を紹介して頂きました。内容の一部を抜粋すると次の通りです。

    • 両角(もろずみ)工学部長(建築学科)のもと、「世界水準の教育、国際的に卓越した研究 熊大工学部から世界を目指せ!!」をスローガンに、「世界に開かれた知恵と情熱の想像力キャンパスの実現」を目標として、設定された課題の達成を目指しています。
    • 工学部資料館(旧制・熊本高等工業学校の機械工場)は内部に保存されている貴重な文化遺産としての工作機械類を含めた形で、日本機械学会より「機械遺産」として認定されています。
    • 総合研究棟には情報電気電子工学科が入っています。その隣の2階建の建物が工学部百周年記念館で、2階に工業会事務局があります。
    • 工学部2号館は、平成17年に改修工事が行われ冷暖房完備となり、講義棟として利用されています。
    • 工学部1号館も平成17年〜18年度にかけて改修工事が行われました。現在は社会環境(旧・土木)、建築学科及び事務部等が入っています。
    • 工学部図書館(正式名称は熊本大学付属図書館・工学部分室)は廃止されましたが、その建物は改修されキレイになり、今では学生たちにラウンジとして利用されています。
    • 大学事務局の正面入り口には「国立大学法人・熊本大学」と言う看板が有ります。
    • 工学部キャンパスを出て、県道337号線をわたり法文系キャンパスに入りますと「龍南健児(りゅうなんけんじ)の像」「小泉八雲記念碑」「武夫原頭(ぶふげんとう)の石碑」等が有ります。
    • 生協施設は現在では大幅な拡張・充実がはかられ、FORICO(フォリコ)の名称で親しまれています。
    • 現在の熊大全体の(大学院生を除く)学部学生数が約8000名(内、女子学生約3100名、39%)、工学部学生は全体の約30%、2500名(内、女子学生約300名、13%)となっています。工学部全学生に占める女子学生の割合・人数共に以前より大幅に増加しました。
    • 熊大工学部は若い人材の育成にも力を入れています。工学部では、現在「理数学生応援プロジェクト」(H21〜24)を採択し、「高・大・大学院連携型理数学生ステップ・アップ・プログラム」を全学部あげて推進しています。目的は、理数系に対する強い興味・意欲を示す能力の高い人材を早い段階から積極的に発掘し育てるため、「高大接続・学部教育の強化」体制の確立を目指すものです。
    • 昨年(平成21年)11月下旬には、東京・国立科学博物館で大学サイエンスフェスタが開催され、「KUMADAIマグネシウム合金」研究など熊大の特色ある4種類の研究成果を紹介しました。
    • 熊本大学フォーラムは大阪で第1回目を開催して以来、平成20年11月に第6回目をインドネシア国・スラバヤで開催しました。今年度は、ベトナム・ハノイでの開催を予定しています。
    • 一時中断していた工学部運動会も一昨年から再開しています(運動会の模様が、動画にて上映されました【動画アップロード省略】)。


    以上の、内容につきましては以下のPDF文書も併せてご覧ください。
    「近況のご報告-1(p1〜p7:4.4Mバイト)」
    「近況のご報告-2(p8〜p14:4.1Mバイト)」
    「近況のご報告-3(p15〜p21:3.9Mバイト)」
    「近況のご報告-4(p22〜p26:2Mバイト)」


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  • 【平成22年度】中西教授の講演要旨
    12 機械システム工学科教授の中西 義孝先生には、熊大工学部が現在行っている新入学生に対するきめ細かな”フォローアップ教育システム”を中心とした、卒業生のみならず今後の大学入学を志す受験生にとっても興味深い話題を提供していただきました。先生のスピーチの要旨を「談話風」に掲載します。

    みなさんこんにちわ。
    去年の運動会で2位になった、機械システム工学科の中西です。綱引きに参加してこれ以上ないと言うくらいきつい思いを味わいましたが、同時に機械の高成績に少しは貢献できたかなと思っております。
    昨年の学生の成績管理を担当する教務と言う業務の経験に基づく若干暗い話から始めさせて頂きます。

    入学後間もないこの時期には開放感を存分に味わう事が出来た以前の新入学生と違い、最近の新入生は入学直後から「基礎学力テスト」や、更には必要に応じて「ステップアップ講義(リメディアル教育)」の厳しい洗礼を経験することになります。
    これは、推薦入試等を経て比較駅早い時期に入学が決まった学生もいたりして、学力維持の観点から若干の懸念が残るために行われる大学がおこなうものです。数学、物理、化学、英語(TOEFL)等の教科試験を朝から夕方まで丸1日かけて実施します。試験結果の採点は、我々教官が必死になって行います。この試験で、新入学生の問題点や傾向等を把握するのです。
    数学や化学の採点結果をみると、「ふたこぶラクダ型」の分布になるという問題も見られず、典型的な正規分布曲線になるようです。 物理成績にはやや「ふたこぶラクダ」の傾向が見られますが、全体としてはそこそこ優秀な学生集団であると言えると思います。
    但し、最近問題視されている「ゆとり教育の弊害」なのか、微積分が理解できない学生も散見されます。専門教育上支障がでそうな一部の学生に対してはリメディアル教育、つまり補習授業をやらざるを得ません。
    つまり基礎学力テストを受けた後、対象全学生が工学部全体に対する自分自身の大体の順位を(個人情報を厳格に保護した形で)知る事が出来ます。その結果、どうしても補修授業を受けてもらう必要が有る学生80名に絞って、補習授業への参加を促します。実施に当たって以下の点に配慮しています:
    1. 補修授業は5時限目を利用して行う(つまり、正規の4時限授業の終了後)
    2. 対象となった学生のプライドを傷つけないようにする(原則、自己申告による自発的な参加を促すも、必要な場合にはクジ運の悪い先生(笑)が個別の学生に声をかける)
    3. 支援される学生のプライバシーを考え、メールによるコミュニケーションを最大限活用する等の工夫をする。
    強引なやり方をすれば心を閉ざしてしまう引きこもり学生を生み出しかねない微妙な問題ですので、大学側としても「トラブルの未然防止」と言う視点に最大限配慮した学生支援対策に力を入れています。

    次に授業内容について述べます。
    私の学生時代には、担当教授から勉強について随分とハッパを掛けられ、しごかれた記憶が有りますが、近年、相対的に授業時間数が減ってきているようです。また、最近では個々の授業内容について「将来何の役に立つのか?」と聞いて来る学生もいるようです。そこで、例えば、次のような工夫もしています。
    1. 入学直後の学生を数名単位で研究室に招いて、入門セミナと称する簡単な実験をしたり又は機械を触らせたりする授業を行って緊張を取り除きます。
    2. 3年生になった学生に対しては、(現実問題としては、色々と大変な問題点も有りますが)プロジェクト実習と称する自ら物作りに取り組む教育、例えば有志によるロケットコンテストを試みたりしています。


    明るい話題に移ります。
    現在工学部では学部長のリーダーシップの下、「特色ある研究の推進と研究力の強化」等の目標実現に向けてまい進しています。
    しかしご存じの通り、昨今の独立行政法人化後の大学を取り巻く環境としては毎年1%ずつの研究費の削減や、更には、外部機関の評価結果次第では大学間の予算再配分等による更なる予算削減も行われようとしています。
    熊本大学の場合、概して好評価を頂いていますが、一部には留意すべき点も有ります。 すなわち、一般的な外部評価機関受けを狙うには、例えば学科構成や名称も、以下のような配慮をすると高評価を頂けると思われます。
    1. 学生の採用方式に当たっては大枠方式とする(入学後、一定期間を経て学生の特性を考慮して具体的な専攻領域に振り分ける)
    2. 学科名については、例えば「最先端○△医療研究福祉工学科」等の、時代の流れに沿う名称を採用する事が望ましい
    これに対して、熊大工学部は(上記(1)や(2)と趣を異にする)シンプルな「基幹学科方式」に5年前に戻した経緯が有ります。これらに関する外部からの「方向性として時流に棹差す」との批判も甘んじて受け入れている次第です。
    最先端の研究・学問は基礎的な部分がきちんと確立されてこそ初めて花開くと言うのが私どもの基本的な考え方です。特定の専門領域でしっかり基礎を固め、その上で、広範囲な学際分野にも貪欲に興味を持って頂きたいのです。
    一方、外部評価から指摘された問題点克服の試みも行っています。
    具体的には「熊本工業連合会(工連)」の会長様はじめ複数の方々に、我々熊大研究者有志の様々な取り組みを評価して頂き、同連合会の中の各種グループ研究会の一つとして、「熊本バイオメディカル関連技術市場調査研究会」と言う研究会の立ち上げに御理解を頂けました。
    今年7月初め公式発足予定の本研究会の狙いは「基本教育をしっかりと行い、その上で時代に沿うテーマや他分野の事柄も若干は学んで頂く」ということ、「つまり卒業研究レベルの段階で学生達に外の空気を吸わせる」という試みです。
    具体的には、現在私どもは例えばマグネシウム研究分野のような拠点研究グループプロジェクトの立ち上げを申請中ですが、このように電気・機械・情報系の有志の先生方と医学部の先生の有志、その他の関係組織のメンバーから構成される共同の研究グループが既にかなりの数、立ち上がろうとしています。これらを将来的には「工連」の組織に組み入れ外部講座として教育を行う事で、以下のような効果も期待しながら学生たちが外部の空気に触れる機会を作ろうとしております。
    1. (1)先程の外部評価の問題点(教育上の不足する部分)に関する対策の一環として、外部講座と言う形でフォローアップする
    2. 共同研究に従事する学生に、必要ならばその後も関連企業に在籍してもらってテーマ研究を続ける(インターンシップ)
    以上をもちまして、現状報告とさせて頂きます。

    【注】この講演内容に関しては、別添の資料「サクラサク・・・入学式後に待ち構えるもの(PDF文書)」もご覧ください。


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  • 【平成22年度】浦川様の講演要旨
    18 本学工学部・金属工学科卒業の浦川様は中部支部幹事の中でも特に中心的存在としてご活躍の一方、現在も正面処理技術をコアとする金属総合加工企業の葛サ和工業所で現役として働いておられます。本日の講演では、SGメッキという塩害に強い独自技術について、パワーポイント資料を用いて専門家以外の総会出席者にもわかりやすく説明していただきました。その講演要旨を談話風にまとめて、以下に掲載します。

    金属・昭和50年卒業の浦川です。株式会社・興和工業所と言うメッキ関係の金属総合加工企業で働いています。 本日は当社製品でありますSGメッキ(溶融亜鉛アルミ合金メッキ)のご紹介と言う事で話をさせて頂きます。

    私たちの日常生活の中で、鉄製品はたくさん使われています。鉄製品には「錆びる」と言う弱点が有ります。その弱点を補うために「表面処理技術」と呼ばれる技術が有ります。そして、表面処理技術の一種である塗装には大別して以下の3種類の方法が有ります。
    1. 塗装
    2. 電気メッキ
    3. 溶融メッキ
    ご存知の方もいらっしゃると思いますが、溶融亜鉛メッキは色々なところで使われています。
    例えば、写真で示しますような太陽光発電の架台、新幹線の駅舎(腐食の激しい部分)等が有ります。又、送電線鉄塔に関しては全て、付属する各種の金属部品も含めて、必ず溶融亜鉛メッキをすることになっています。
    溶融亜鉛メッキは量的に言いますと日本全国で年間116万トン程度の物(鉄製品)に対して加工処理が施されています。鋼管、一般鋼材、道路グレーチング、建築材、仮設機材、それから電力通信設備等です。
    但し、溶融亜鉛メッキは、日本のような四方を海に囲まれた環境で問題となる「塩分を含む環境」に対して弱いと言う弱点があります。また、積雪対策に用いられる融雪剤に含まれる塩化カルシウムに対しても弱点が有ります。
    通常、好環境の下では亜鉛メッキを施した場合相当長期間(約100年間)にわたって寿命を維持します。例えば東京電力・猪苗代湖の鉄塔は建設後約90年を経過していますが表面被膜の劣化は許容レベル内に抑えられています。これが、海岸近くでは途端に状況が一変してしまいます。短い場合には、5〜6年で表面被膜が剥離してしまう場合も有ります。

    この弱点を補うために溶融亜鉛メッキに改良を加えたものが「溶融亜鉛アルミニウム合金メッキ(SGメッキ)」と言われるものです。 SGメッキの特徴は以下の通りです。
    1. 塩害に強く、溶融亜鉛メッキのほぼ2倍〜10倍くらいの耐食性が有ります。
    2. 溶融亜鉛メッキと同様に犠牲紡食作用が有る
    3. 有機溶剤、カドミウム、鉛、クロム等の排出が厳しく規制される昨今の環境保護潮流の中に有っては、時代にマッチした地球環境にやさしい表面処理法である


    SGメッキの浴組成
    亜鉛94%、アルミニウム5%、マグネシウム1%を溶解した鍋の中でメッキする事で、優れた特性が確保されます。
    SGメッキの被膜の顕微鏡写真がとって有ります。塩害に対してはアルミニウム(元素記号:Al)が強いと言う点では、従来の溶融亜鉛メッキでも同じではないかと思われるかもしれませんが、従来の溶融アルミの場合は、溶融温度が高いと言う事や、生産コストが高い事等がで有る事などの問題点が有ります。SGメッキの被膜中ではアルミの濃度勾配がが鉄層側へとより高くなっていきます。 例えば、鉄素地近くの合金層ではAl濃度25〜40%であり、メッキ被膜の上層部ではAl濃度5%程度になります。Al濃度が高い分、亜鉛メッキに比べて耐食効果も強くなるわけです。
    また、例えば各メッキ法の特徴を比較しするために行った、塩水噴霧試験(5%の食塩水を噴霧状にした雰囲気中に被膜が付着した試験片を晒して寿命を図るもの)結果のグラフからも溶融亜鉛メッキに対するSGメッキの明らかな優位性が読み取れます。
    更に、多面的に妥当性を確認するために、実際の環境中での耐久性を検証する暴露試験も行っています。寿命最長のものは、日本道路公団の北陸自動車道の有る場所での暴露試験では既に10年近くが経過しています。
    北海道の沿岸部で海水のしぶきが常時かかる中で防風柵を設置していますが、ここで亜鉛メッキとSGメッキの耐久性比較検証を行いました。その結果、亜鉛メッキの腐食量は約6.2μmです。一方、SGメッキの腐食量は1.1μmでした。つまり、亜鉛メッキの寿命約10年に対し、SGメッキの寿命は約6倍の60年近くと言う事になります。

    環境面の安全性という観点では、今欧州を中心に規制の徹底が求められているRoHS指令で指定された有害物質の閾値も十分クリアできる値となっています。つまり、環境負荷の観点からも「地球にやさしい表面処理法」であると言えます。
    塗装性に関しては、溶融亜鉛メッキでしばしば問題になるブリスターの発生が(SGメッキの場合は)極めて少ないなど、良好な結果が得られています。
    色調は亜鉛メッキに比べるとやや黒ずみが出るようです。
    SGグレーチング採用例としてはその他、東京湾羽田沖に設置された海上保安庁灯標(約3年経過)や中部電力渥美発電所(6〜7年経過)等があります。何れも耐腐食性に関しては狙い通りの結果を得ております。
    広島県玖波漁港や富山県氷見漁港などでもSGグレーチングが採用されて、何れも好結果を得ています。赤錆で海水を汚し、魚に悪影響を及ぼしかねない環境下でも有効性が実証された形です。

    以上のように、SGメッキの様々な優位性は徐々に認識されつつあるようです。因みにSGメッキの年間使量は(亜鉛メッキの116万トン/年)に対して6000トン程度です。今後も海水環境下や融雪剤の使用環境下での使用がどんどん広がるであろうと期待しています。 興味のある方は、本日お渡ししますパンフレット等を見て、ご使用のご検討をお願いします。
    本日は、ご清聴どうもありがとうございました。

    【注】この講演内容に関しては、別添の資料「対塩害仕様 SGグレーチング ご採用のお勧め(PDF文書)」もご覧ください。


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21年度の各講演の要旨
  岡村会長の講演要旨(H21)  曽我様の講演要旨(H21)
  • 【平成21年度】岡村工業会会長の講演要旨

    12 皆様こんにちわ。

    本日の総会出席者は先程御紹介もありましたが幅広い年齢層にわたっておりまして、中部支部の活動がバラエティある大変活発であるなという印象を持ちました。
    私は、昨年6月に園田前会長から本職を引き継いだわけです。本日は、大学広報誌に基づきまして大学の状況を御説明させていただきまして、本日の私の責を果たさせていただきたいと思います。

    御承知の通り、熊本大学工学部は1890年(明治30年)4月に 第五高等学校工学部として創設(土木科、機械科)されて以来、今年で112年になります。
    今年4月には前工学部長の谷口先生が崎元前学長に続いて熊大学長に選ばれました。2代続けて学長が工学部から出たのは今回が初めてです。
    谷口先生は、私も大学在職中にお付き合いさせていただきましたが、東工大出身の非常に優秀かつ有能な先生で、熊本大学のために今一生懸命やって頂いております。

    現在、工学部としましてはこの広報誌にも書いてあります通り、
    「世界の最先端研究拠点=Global COE(Center of Exellence)」ということで、全国の大学でも東大、京大或いは名大など限られた研究機関の20〜30テーマしか選ばれないと言う数少ない研究拠点として選ばれ、「衝撃エネルギ科学」や「熊大マグネシウム材料」等の研究テーマに取り組んでおり、国からの多額の財政支援を受けています。

    衝撃エネルギ科学と言いますのは、清田先生がはじめられたものでして、当初は鉛板を鉄製の支持枠に挟んで高所から落下させたときの衝撃変形の状態などを研究していました。
    現在は爆薬を使った色々な研究へと進んでおりまして、機械・生産機械の卒業生の方は御存知かもしれませんが熊本大学の衝撃エネルギ研究所は全国の大学の共同利用施設として一目置かれた存在となっています。

    また、本日多数御出席の金属材料関係の方々にとりましてはお馴染みの「熊大マグネシウム材料研究」というのは、これまた非常にセンセーショナルな話題として、新聞などにも取り上げられています。

    このように世間的には少子化がどうだこうだと問題も取り沙汰されておりますが、母校熊大はそれなりに頑張っております。国内に向けて、また世界に向けて頑張っているということを御報告申し上げたいと思います。

    そのほか、大学は今、法人化されまして現在文科省から430億位の予算が配分されています。
    しかし、毎年効率化を求められる予算に対して1%、約1.3億円の予算が削減されています。この減らされたお金をどのように手立てするかということが問題となっています。もちろん、合理化しなければなりませんが、各先生方が企業と組んで研究費を自力で調達しようという取り組みにも力を入れております。このような取り組みは自然科学系では企業との繋がりもありますが、一方で人文系の場合はうまくいかない面もあります。

    このように、毎年1%削減されるということは、大学の停滞にもつながる大問題ということで、崎元前学長が提唱された「(熊本大学)支援者会」というものを作り、卒業生の方々を中心に浄財を募って、多少なりとも研究支援や学生支援に充てたいという構想もあります。

    そのようなわけで、支援者会の趣旨に従いまして卒業生の皆様のところにも支援のお願いが行くこともあるかも知れませんので、宜しく御協力をお願いいたします。
    工業会としても、財政的な面で熊本大学、とりわけ工学部に対する支援体制を確立したいと考えています。

    尚、私は平成8年まで約40年間熊本大学で、その後すぐ崇城大学で12年間、合計52年間の教員生活を送りました。その間の大学の急激な変化にはかなり戸惑っております。

    そのような中で、今年はここに書かれていますように新制熊本大学の発足から数えて60年目を迎えますので、大学のほうで11月1日と2日の2日間、色々な行事が考えられています。帰省の折には是非お立ち寄りください。

    又、11月20日〜29日の間、東京・上野の国立科学博物館で熊本大学展が計画されています。
    他大学との共同企画ですが、先程述べました「マグネシウム材料研究」関係の展示もなされるとということです。
    熊本大学のPRにも役立つことですし、またこの展覧会に対する来訪者数が実績として評価されそうですので上京の際にはこちらのほうにも是非お立ち寄りいただきますようお願いします。

    大変とりとめのない話で、恐縮でございますが、これをもちまして私の御挨拶とさせていただきます。
    本日はお招きいただきましてどうも有難うございました。
                       以上

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  • 【平成21年度】曽我様の講演要旨
    16 ■20090627 熊大工業会中部支部総会・講演会・曽我和智

    ◆「今、時代は〇〇の時代。カギは誠実と思いやり

    「こんにちは」 ただ今ご紹介に預かりました曽我和智です。
    まずは簡単に私の自己紹介をいたします。

    私が生まれたのは、九州、熊本県の玉名郡長洲町です。金魚の名産地です

    そして育ちは福岡県の大牟田市です。
    三池炭鉱があった所で、炭鉱は既に閉山してしまいました。

    職業は水門の設計をやっています。川や堤防で水を堰き止めて水量調節などをおこなっている構造物です。
    したがって、私は、機械設計と土木設計の両方を勉強いたしました。

    そして今後は、私がこれまで培ってきたスキルを社会に還元していきたいと思っているところです。

    以上が簡単ではありますが、私の自己紹介です。それでは講演に入ろうと思います。が・・・ その前に。

    少し話しが飛びますが、
    実は、3月中旬に家入さんから、突然、思いもかけずに、講演依頼のメールが届きました。「業務体験談などを講演してみませんか」という内容でした。お引き受けするかどうかについては随分悩みました。といいますのは、私の仕事は水門の設計で、どちらかというと特殊な部類に属しますので、私の業務についてお話しをしても、ほとんどの方々には興味を持ってもらえないだろうし、また、あまり参考にはならないだろうと思ったからです。

    でも、折角の依頼をお断りするのもいやでしたし、それに、人前で講演する機会を持つのも悪くは無いし、今の自分に話せる内容のものを素直に話せばいいのではないかと思い直して、お引き受けすることにしました。

    ここでお断りしておきたいのですが、講演の内容は「100%すべて私のオリジナル」というわけではありません。講演の内容の一部は、本で読んだ内容の一部であったり、セミナーや講演会などで聞いたり学んだりした事柄の中で、自分が「なるほど、そうだな」と納得した内容なども含まれています。

    したがって、皆さんの中には、「そのことについては、何かで読んだり聞いたりしたようだ」というような内容もあるかと思いますが、その点はは、どうかご容赦ください。

    前置きが長くなりましたが、それでは講演の本題に入らせていただきます。

    講演の題目は、「今、時代は〇〇の時代。カギは誠実と思いやり」 となっていますが、それでは、この「〇〇」には、一体どんな言葉が入ると思いますか?

    私は、この「〇〇」に、「個人」という言葉を入れようと思っています。
    つまり、「今、時代は個人の時代。カギは誠実と思いやり」 ということです。

    現在では働く人たちの環境が、私が新入社員として入社した1973年(昭和48年・36年前)当時と比べると激変したといってもいいくらいに変りました。特に終身雇用制の崩壊はその一つです。現在、新しく企業に入社した人たちの中で、その企業に定年を迎えるまで勤務して、しかも退職金を十分にもらって定年退職するつもりだと思っている人は、果たして何%いるでしょうか。

    グーグルで検索してみましたところ、
    「定年まで勤めたい新入社員の割合は42.9%」
    さらに、NTTデータ経営研究所は2009年3月13日、正社員の「企業での就労」に関する意識調査の結果を発表しました。それによると、自分が今勤めている会社に「定年まで勤めたい」と考えている人は32.7%、つまり、3人に1人であることが明らかになった。とあります。

    このことは、約半数の人が転職するということで、その割合は今後はもっと増加していくのではないでしょうか。

    そして、転職理由の上位を占めるのが、給与・待遇、職種や仕事内容、人間関係、社風、会社の将来性、スキルアップの可能性、といった個人的な理由によるもので、リストラ、会社の倒産などの外的要因にいよる転職は、その2つを合計しても10%未満で最下部に位置しています。

    転職理由については、今も昔も、あまり変りはないと思いますが、転職する人の数が増えていき、その理由のほとんどが「個人的な理由による」ということです。

    それから、終身雇用制の崩壊だけでなく急速な技術革新も、働く人たちの環境を大きく変えました。その中心にあるもののひとつに「IT技術の進歩」があります。特にインターネットの発達は情報の共有化を可能にしましたし、遠隔地にいる人とのコミュニケーションを容易にしました。さらに、個人が簡単に自由に情報収集と情報交換をおこなえるようになり仕事のやり方も変ってきました。

    私の場合で言いますと、
    それまでの私の仕事のやり方は、皆さんのほとんどがそうであったように、また、今でもそのようにされている方もおられると思いますが、打合せをしたり、資料のやり取りをおこなう場合は、お客様の所まで出向いていって、直接お会いしておこなっていました。そして、そういう場合にはいつも車で出掛けていましたので、私が仕事を受注できる範囲は、車で片道2時間程度の距離にある企業ということに限定されていました。

    それ以上の距離になると、打合せなどに一日を要するような場合は、受注単価から換算して、つまり、費用対効果を考えると採算に合わなくなってしまうのです。ですから、仕事を広げようとしても限界があったわけです。言い換えれば、車で片道2時間の範囲内に存在するお客様の数によって私の事業規模が決まってしまうという状況にありました。

    しかし、インターネットの発達により事態が一変しました。つまり、机の前に座ったままパソコンで打合せや資料のやり取りができるようになったのです。図面の作成はずっと以前から手書きによる製図からCADに変っていましたので、図面のやり取りもパソコンで出来るようになりました。しかも、実際の距離は関係なく、日本全国どこにいるお客様ともおこなえるようになったのです。

    まさに、環境の変化によって仕事のやり方が激変したということです。

    しかし、そのことは言い換えると、「私たち働く側にも変化することを求められる」ということを意味します。
    そして、この変化に対応できない人は淘汰され消滅していく運命にあります。これは何も設計だけに限ったことではありません。

    私はこの変化の核心は大衆から個人への移行だと思っています。以前は団体で、あるいはグループで行動していたのが、個人一人ひとりが自己責任で行動することが、これまで以上に求められるような時代になったのだと思います。

    IT化の大きな特徴のひとつに、個人による情報の発信と受信があります。一人ひとりが自分専用のパソコンを持ち、自分専用のメールアドレスを持って、それがたとえ企業内のパソコンを使用していたとしても、情報の発信と受信は個人個人が一人ひとり行います。

    このことは、個人の責任が明確になり重要になる、ということを意味しています。それは、私たち一人ひとりが自己責任で対応していかなければならないということです。

    しかし、インターネットを利用してビジネスをおこなう場合の最大のデメリットは、相手の顔が見えないということです。相手がすぐ近くに住んでいるのであれば、メールのやり取りをした後、出掛けて行ってお会いして、お互いに顔をつき合わせて、直接話しをすることもできるのですが、遠方に住んでいるお客様の場合にはそういうわけにはいきません。たとえ電話やFAXを併用したとしても、実際にお会いしないで判断することは大変なリスクです。

    そのことで、実は私は何度か痛い目に遭いました。「お客様はいい人ばかりとは限らない」ということです。

    ただ、インターネットを利用してビジネスをおこなう場合の最大のメリットは、取引相手の場所を選ばないという点にあります。このことは、皆さんが持っている商品やサービスを上手く提供すれば、個人として、何百人、何千人、さらには何万人ものお客様と取引することができるということを意味しています。つまり、相手の顔が見えないというデメリットを克服できれば、大きなビジネスになる可能性があるということです。

    私は、これからの製造業でのビジネスのやり方は、今までの企業対企業、あるいは企業対個人から、個人対個人へと大きくシフトしていくのではないかと思っています。つまり、企業に勤めている個人が他の企業に勤めている個人と直接取引きをするということです。あるいは、消費者と直接取引きをするということです。言い換えると、企業に勤めている一人ひとりが自分のお客様を持つということです。そしてこれは企業内での地位や職種には無関係だということです。社長であっても、部長や課長であっても、経理や現場の主任であっても、一人ひとりが自分のお客様を持つということです。

    そのようにして、私は、個人が企業内での自分の立場を確立していく時代になっていくと思っています。

    これからは、一人ひとりが自分のスキルを向上させて、自分のお客様を開拓し、自分の職場に責任を持つ。そして、自分の昇給や昇進を得るための正当性を自分で示し、自分から積極的に働きかけて、それを要求して手に入れる。そのような社会になって行くと私は確信しています。

    ここで重要になるのが個人の資質です。

    皆さんも「意地悪なひと」「利己的なひと」「約束を破るひと」、そのような人とは友達になろうとは思わないでしょう。また、そのような人とビジネスをやりたいとも思わないでしょう。そして、そのような人が社長をしている企業とは取引をしたいとは思わないでしょう。

    私の経験から言いますと、求められる個人の資質は、いろいろあるとは思いますが、その中でも特に、「思いやりと誠実さ」だと思います。「思いやりのある人」「誠実な人」、そして、人と人とのつながりを大切にする人、そういう人たちが、これからの社会の変化に対応できる人だと思います。

    「類は友を呼ぶ」という言葉があります。皆さんが「思いやりのある人」「誠実な人」ならば、同じように「思いやりのある人」「誠実な人」が集まってきます。

    ひとは自分一人だけの力では成功できません。成功するには他の人たちの協力が必要です。成功したいなら、まずは自分が人に協力し、相手をサポートすることが必要です。そして他人に奉仕しましょう。思いやりと誠実な心で対応しましょう。優しい言葉や、心からの笑顔や本当に気持ちの良い挨拶で対応しましょう。また、他人に対してだけではなく、自分自身に対しても思いやりと誠実な心で対応しましょう。そして、自分自身を愛しましょう。

    自分の人生に責任があるのは100%自分です。今までと同じやり方をしていたら、すでに得たものと同じものしか得られません。自分を信じて、人生を楽しんで、最高の自分になれるように、目標に向かって努力してください。

    最後に、私にこの講演をする機会を与えてくださった、前会長の宇対瀬さんと幹事の浦川さん、さらに家入さんの3人の方々に感謝いたします。そして最後まで、私の講演をお聴きくださった皆さまお一人お一人に感謝申し上げて私の講演を終わらせていただきます。

    本日は、ご清聴どうもありがとうございまし

    た。
                                               以上 

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 平成20年度講演要旨  
                           岡部先生の講演要旨      宇対瀬様の講演要旨 
  • 岡部先生の講演要旨

    06 皆様今日は。
    本日はお招きいただきましてどうも有難うございました。私は昭和50年熊大建築学科卒業しました岡部です。現在は建築学科に勤めています。 ここ(のスライド)に博士前期課程・後期課程と書いてありますが、このあたりは後ほど詳しく説明いたします。
    ☆私は昭和46年に建築学科に入学しまして、昭和50年に学部を卒業し修士課程に入学しました。又、昭和52年助手になりまして、平成元年には助教授になりました。その間、私が学生時代をすごした頃、色々有りましたがそれはこのスライドに書いてあるとおりです。 当時一番印象に残っておりますことは、授業料が年間12000円だったと言うことです。現在は50万円ぐらいかかります。月額1000円でしたから幼稚園より安いんじゃないかと言う時代でした。 当時は、特別奨学金が月額10000円ぐらいだったと思いますが、そのおかげで貧乏学生だった私も大学に通うことができたと思っています。
    ☆私が助手になった後、苦節十数年を経て平成元年助教授になる間、熊大にもドクターコースを設置しようと言う動きが出てきました。このときはかなり大変だった記憶があります。学術論文をドンドン書くようにと、すごく締め付けられたという時代でした。以上で、私の自己紹介を終わらせていただきます。 このあと、少しばかり大学の様子をご報告したいと思います。
    ☆実は、今日この中部支部総会に出席すると言う話は二十日ぐらい前に決まりまして、それから熊大工学部事務局のほうに何か資料はないかとたずねたところ、これをもっていけと言うことでこのパワーポイントの資料を手渡されたわけです。先ほどお聞きしたら中部支部では毎年総会を開催されると言うことですが、この資料も多分去年の今ぐらいの時期に作られたものだと思われます。ひょっとしたら皆さんこの中身についてはご存知かもしれませんが、ご説明させていただきます。 ご存知のように、国立大学も法人化と言うことで、早く言えば民営化されたわけでして、中長期目標・計画を立てその通り業績をあげるよう求められています。6年ごとに大学評価・学位授与機構(独立行政法人)による評価を受けることになっています。大学の予算もこの評価結果によって決められます。大学の運営は学長を頂点として、その下に副学長4人を含む10名程度の理事によって行われています。理事の中には、学者以外の人も数名含まれています。この改変に伴い権限が集中しトップダウンシステムが徹底した一方で、上意下達の傾向が促進され風通しが悪くなったと言う意見も有ります。
    ☆法人化・民営化後は官ではなく民となったわけで、教官が教員と呼ばれるようになりました。以前は技官と呼ばれていた人たちも、今では全て職員となりました。最近の変わった点としては、そのほか大学院の重点化と言うのがあると思われます。これはどういうことかといいますと、所謂旧帝大といわれる大学の場合、大学院が主体となっているわけですが、熊本大学工学部の場合もそれを取り入れようということになったわけです。私も含めて、先生方の所属が大学院に替わることになります。この辺のところは後でまた説明します。
    ☆教員の呼び方についても、教授はそのままですが、従来は助教授という呼び方だったのが新しく准教授と呼ばれるようになりました。講師と言う身分(熊大工学部に数名しかいないということですが)もいまだに存在します。助教と言う呼称もあらたにもうけられました。これは昔、助手と言っていましたが、権限的には若干強化されたようです。助手という呼称もありますが、現実には今工学部にはこれに該当する方達はいないと思います。
    ☆大学の役割とは何かと言うことは、組織の存在にかかわる問題として、我々が評価されるわけですが「教育」、「研究」のほかに「社会貢献」及び「学内運営」という役割が新たに強調され始めました。私どもは毎年この教育、研究、社会貢献、学内運営の4分野でどのような功績を挙げたかと言うことを書類で報告し、評価を受けなければなりません。 次に、熊大が世界的にどのようにランク付けされるかと言う点ですが、「世界で190位」と言うことになっております。その、正確な根拠については私も把握しておりません。
    研究資金獲得額(科学研究費や寄付金額)については国内17位と言うデータもありますが、これは見方にもよりますが、熊大はほぼこのくらいであろうと思われます。
    ☆それから「大学のブランド形成・特色ある研究」とここに書かれている内容に関しては、既にご存知の方もいるかも知れませんが「21世紀COEプログラム」というのがあります。これは、大学が行う特色ある研究に対して文部省から多額の研究費を出してもらい、重点的に研究を行うと言うものです。熊大工学部では「衝撃エネルギー科学の深化と応用」がその対象となっております。先日、21世紀COEプログラムの次のテーマとして「グローバルCOEプログラム」が選ばれ発表されましたが、この「衝撃エネルギー科学の深化と応用」はその対象にも選定されまして、今後5年間、助成金をうけ大いに業績を上げることを目指しています。
    ☆このスライドの内容が平成18年度に変った内容です。主な点は、学部の入学定員が若干減らされ513名となりました。また、修士課程の定員は82名の大幅増員となりました。博士課程も若干の定員減が行われました。
    ☆注意していただきたいのは大学院自然科学研究科と言う言い方になった点です。これはなぜかと言いますと、学部レベルでは理学部と工学部に分かれているものが、大学院レベルで理学部と工学部が一体化されて運営されるためです。私も名刺には「自然科学研究科」と書かなければなりません。また、大学院は前期(修士)課程と後期(博士)課程に分かれています。旧帝大等でこのような言い方がなされていましたが、熊大もそれに倣ったものです。
    ☆工学部の今昔と言うことについてですが、学生数の増加、特に女子学生の増加が目立っています。建築学科の場合、3割程度が女子学生でして、授業中に黄色い声が飛び交います。私の学生当時は女子学生は1名でした。 また、運動会はなくなりました。
    ☆建物の様子も一変しました。それから、前期・後期の季節割に変化がありました。昔は、7月10日〜9月10日が夏休みでしたが、最近5、6年は8月と9月が夏休みです。前期試験が7月末に終わって休みに入ります。これは教室にクーラーが設置されるようになりまして、7月の暑い時期でも講義ができるようになったためです。
    ☆長くなるといけませんから、後は、スライド写真で工学部内の建物などを説明して終わりたいと思います。
    【記述者コメント:以後の講演内容は、一部抜粋で記載させていただきます】 ・・・・・・・・・・・・ 今は工学部資料館となっている旧機械工場は重要文化財に指定されまして、中に設置されている工作機械は動く状態での保存(動態保存)が行われています。これは、昨年9月ごろ機械学会から機械遺産に指定されまして、NHKの番組でも当時放映されたそうです。 ・・・・・・・・・・・・・・ 長くなりましたがご清聴有難うございました。                  以上

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  • 宇対瀬様の講演要旨
    13 昨年まで支部長を務めておりました、昭和38年・金属卒業の宇対瀬です。私の隣に座っておりますのが昭和41年卒業の高橋君です。私に万一の事がありましたら、直ぐにバトンタッチできる体制をとっております。
    今回の講演テーマは、今から約10年前、当時私は中部鋼鈑鰍ノ勤めておりましたが、日本ガイシ鰍フ偉い人が私の所に訪ねてきまして「このたび、ゴミ処理プラント分野に参入したい。ついては、今までのようにゴミを焼いて捨てるだけでは競争に勝ち抜けないので、ゴミを蒸し焼きにして炭素を作りたい。しかし、現時点では、炭素の品位が低すぎてまともには使えないので何かいい方法がないだろうか」と言うことで相談がありました。そこで、都市ゴミからカーボンを実験的に生成してみたところ日本碍子鰍フシステムで30%代でした。鉄鋼生産のプロセスで使えるカーボンと言うのはやはり60%代は欲しいところです。と言いますのは、電気炉にカーボンを投入する場合、一番欲しいのは溶けた鉄の上にスラグが乗っかっているわけですが、高温になるとカーボンの一人勝ちなのです。1600℃近傍では、どのような酸化物があってもカーボンがそこに入っていきますと、みんな他の酸素を奪ってしまいます。その時CO又はCO?ができるわけですが、これがワーッと“スラグフォーミング”と言いますがあわ立つわけです。これが電気炉で一番欲しいプロセスなのです。
    30数パーセントのカーボンでは使いようがありませんから、「もう一寸、品位を上げることができないか、理想的には60%代であればいつでも商品として使える。それに少しでも近づけて、何か使い道が考えられないか」と言う相談を受けました。
    それに対しては、余り期待もできないということで、通り一遍の対応で済ましておりました。しかし、何年かして愈々、日本ガイシから「当社としては大型のチームを組んで予算もつけ、都市ゴミ商品化事業に進出します。ついては、あなたの提案の趣旨に沿って動きますので、ご協力いただきたい。」という仕事の依頼が持ち込まれましたので、「えー!そうか。これはいい加減なことを言っていると大変なことになるぞ・・・・」と言うことになったわけです(笑)。
    但し、話がここまで具体化するまでに日本ガイシとしてもかなり研究を重ねまして、生成されるカーボン品位を40%代にまで改善していましたので、この場合は1600℃のレベルでの使用は無理としても、スクラップを溶かすときに必要なカーボン、即ち余分な酸素が入ったときのコントロール剤としてなら使えるなと考えました。このようにして、本プロジェクトがたちあがった 訳です。
    さて、愈々このプロジェクト実行の段階となった時、田原町(現在は田原市に昇格)の町長が固形燃料化計画での過去の失敗経験もふまえて、資源リサイクルと言う日本ガイシの提案に興味を持ちまして、プラントの建設地としてOKサインをだしました。この時、エンドユーザがシッカリしていないとこのプロセスは実用化することができないということで、中部鋼鈑鰍ェ出資しました。また、トピー工業鰍烽サの製品の一部を使用するという前提で参加しこのプロジェクトが落札され動き始めました。これはPFI(いわゆる民間資金等活用事業)の仕組みであります。その当時私は中部鋼鈑の子会社の社長をやっておりました関係で、ただ手をこまねいているわけにもいきませんから、「このゴミ処理プラントの仕事(設計・製作)は全て我社に任せて欲しい。また、向こう15年間のメンテナンス業務も独占契約させて欲しい」と要求しました。結果、メンテナンス独占は希望通り受注できまして、設計・製作については一部、当社の主張が認められた形になりました。
     日本ガイシは地方自治体からのゴミ処理プラントの次の受注を取りたいと言う時、「40%代のカーボン品質では世の中の鉄鋼メーカ、特に電炉メーカは諸手を挙げて喜んではくれないだろう。もう少しレベルを上げる、乃至は、商品としてのシェープアップを図ってもらいたい。」と言う提案を私どもに持ち込んできました。
    このようなわけで、私ども二人は今、日本ガイシからかなりの額の研究費を援助してもらって、この星野産商の庇(ひさいし)をお借りして(尚且つ、経理上の処理もお任せして)、専ら研究のみに専念させていただいています。そこで研究のかたわら炭素の試験加工と試験販売をスタートさせました。
    研究成果の面でも少しずつ出始めておりますが、昨今の石炭、原油などの原料高の波に乗りましてカーボンも近年グ-ンと価格が上昇してきました。採算面でも明るい見通しが出てまいりましたが、如何せん、出発点が試験研究と言う性格上、当初の原価を安く設定しすぎまして、今更試験製造品の価格を引き上げて欲しいという要求もままならない状態です。この点は、今後の営業努力次第であると思っております。
     以下、パワーポイント資料に従い、順番に説明したいと思います。
    まさに、この事業は原油・石炭・コークス等の価格高騰と地球温暖化・深刻化などの要因を背景として、今後有望と考えられます。ここにも書いてありますとおり、一般廃棄物からカーボン保温材を生成し電気炉製綱所で利用する愛知県田原市の事業例 (中部鋼鈑)及び星野産商の取組を以下で紹介していきます。
    さて、日本の都市ゴミの処理の仕方としては次のような種類の方式に大別されます。
    1. 焼却+灰溶融
    2. ガス化溶融
    3. 炭化
    4. 固形燃料化
    固形燃料化については、近年三重県の多度市で爆発事故が発生して以来、技術的には流行らなくなっています。
    一番、大規模に行われているのが「ガス化溶融方式」です。これは新日鉄を始めとしていわゆる高炉方式で大量且つ一気に処分できるものです。できた灰はスラグと呼ばれ色々な利用方法があると言うことですが、個人的には、これはあまり謳い文句にはならないような気がします。
    あと、次世代方式として炭化という方式がありますが、これはなかなか地方自治体などで通らないわけです。その背景には「過去の実績もあるガス化溶融方式のほうが手離れも良く、採用上のリスクをしょわなくて済む」という考えがあるからです。(少数の成功例をもって)炭化方式を真似をするには荷が重たいと言うことでしょう。
    昔、日本の企業がアラビア半島の王様への海水淡水化プラントの売り込みに成功し、そのお披露目の席に招待した近隣諸国の王様達にこのプラントについて説明を行ったそうです。その席にいた王様達は全員「これと一緒のものを・・・」と言うことで買ってくれたそうですが、現在の日本ではそうは行きません。地方自治体がゴミ処理プラントをどれにするか決めようとする場合、非常に難しいわけです。議会がありますから、それを突破するには第三者機関を作って、その中には学識経験者に入ってもらい、十分な議論をする必要があります。このプロセスが大変複雑でありますから、その首長が「これに決めた」と言ったからといって簡単に決まるものでは有りません。
    一寸、よそ道にそれましたが次(のスライド)をお願いします。
    このスライドのガス化溶融と言うのが一番大量にゴミ処理ができるものです。今、名古屋市鳴海区に建設中の焼却場は、新日鉄が仕事を請負っているものですが、田原市の約10倍の処理能力を持っています。この焼却炉から排出されるものは、気体としての炭酸ガスと、余り使い道のない固体としてのスラグ及びメタルです。但し、跡形もないくらい片付くと言う点が一つの利点であるといえます。
    次(のスライド)をお願いします。
    この表(一般廃棄物炭化施設の現状)が都市ゴミから炭化物を作って有効利用を図ろうとして地方自治体にPRして成功事例を記載したものです。今のところ、わずか6,7例しかありません。今後、このカーボン製造プロセスを広めようとしているわけですが、日本のアチコチからこの田原市の「炭生館」に一杯見学者が来ます。みなこれは素晴らしいと感激して帰っていくのですが、自治体に帰ってからは彼らの意見はいつの間にか霧消してしまうというのが現状です。
    次お願いします。
    この図(田原市のPFI事業の概要)は民活PFI方式でありまして、田原のゴミ処理プラントはトヨタ自動車のテスト走行場の直ぐ隣に位置しています。炭生館と称するこの田原市のゴミ処理プラントは一見してそれとは解らないほど綺麗な建物で、小学生や幼稚園の子供たちも見学にきて、遊んで帰ってゆくところです。このPFIの主な出資メンバーはメタウォータ梶i旧・日本ガイシ)、建物を建てた大成建設梶A三菱UFJリース梶A分析を担当した潟eクノ中部、及びできたカーボンを「有価」として有効に活用する中部鋼鈑鰍ネどです。
    次お願いします。
    このフロー図(炭化物製造の概略フロー)の中で、ポイントは二つあります。
    まず、入口からはいてくるゴミは、私ども冶金屋にとって余り馴染みのない複雑な機械システムの中を流れて行き、この「炭化炉」の中に入ってきます。この中には砂の流動床が組み込まれていますので、此処で上から降り下りてきたゴミと砂が混ざり合う時、下から吹き上がってくる高温ガスによる燃焼が半分程度に抑えられます。このようにして炭化物を取り出すことができるわけです。
    二つ目のポイントは、ゴミの中に入っている塩(ナトリウム)です。これはダイオキシン削減対策の観点から確実に取り除く必要があります。そのため出てきたカーボンは、一旦全て水漬けにします。この中で塩分を洗い落として、最終的に処理をした後、炭素をフレコンバッグの中に入れます。今、中部鋼鈑の200トン電気炉で大量にこの炭素を使っています。この電気炉は電力料金が安い夜間に稼動しますが、夜になって炉が動き出す前にフレコンバッグごと炉に投入します。
    次お願いします。
    この図(流動床式炭化炉【メタウォーター社製】)が今申し上げましたメーンの炭化炉です。このメタウォーター社は日本碍子の水処理部門、ゴミ処理部門及び下水処理部門を分社化し、富士電機鰍フ関連部門と合併独立させた形で発足した組織です。元々は優秀な社員が多いこの会社ですから、今後の努力次第で業績の伸びが期待されます。
    この炭化炉から出てくる固形物としては瓦礫類や金属類があります。このうち瓦礫類は産業廃棄物として管理型処分場に引き渡されます。また、金属類は有価物として電気炉メーカに資源として回収されます。
    次お願いします
    このスライドは、炭化物(コークス代替品、造粒物)及び回収金属類(鉄、アルミ類)を示したものです。これらは全部有価物として有効です。 次お願いします。
    冒頭でも一寸申し上げましたが、この低品位のカーボンは中部鋼鈑の電気炉の中で(夜間の)始動時に使われます。そのほか、この電気炉の下部から溶けた鉄を少しずつ取り出してスラブ、ブルーム、或いはビレットという製品に加工するわけですが、この時、作り出された鉄の急速な冷却を防ぐための保温材としても使われるようになって来ました。以前は、製紙プラントから出る製紙スラジがその目的で使用されていたのですが、現在ではそれが中国に輸出され始めたり、また、技術の進歩に伴いスラジ発生そのものが少なくなってきており、入手困難となってきております。そのような背景で、この低品位カーボンが製紙スラジの代替品として注目され始め利用価値が高まっております。
    次お願いします
    これは、コークス代替品としての袋詰めの部分、及び保温材としての小さな袋詰めの様子を写したスライド写真です。
    次の次をお願いします
    これらの写真は、実際に保温材として低品位カーボンが使われている状態を示すものです。解けた鉄の上にこの写真のように投入して鉄をカバーすることによって保温している様子です。
    次お願いします
    これが日本碍子の試験プラントを写したものです。高橋君が責任者としてこのプラントを動かしています。アルバイトも3人働いています。全員60代、私が最年長の68歳です。団塊の世代の少し前の世代の人達がこのように頑張っています。
    これまで単位あたり1万円前後だったスクラップの価格は現在7万円ぐらいまでに跳ね上がっています。また、これまでは金を払って処分を依頼するのが当たり前とされた金属廃材でも、私共ならそのうち約8割は金属有価物として利用できます。今ここで、余り声高に言うと支払い費用を下げろと言われそうですから言いませんが(笑)、我々のチームは最初から「有価で受け取ります」と言うことで引き取らせて頂いております。
    低品位カーボンと、今申し上げました鉄屑とをブレンドいたしまして、写真にありますような形で「押し出し成型」いたします。電気炉で鉄を溶かす場合には一般的に、1500℃付近で解け始めます。その時は最初に混ぜたカーボンが効きますが、1600℃で出鋼直前になりますと、ものすごい反応速度でカーボンが酸化されてしまいます。この間の排ガスの連続分析を行いますと一酸化炭素(CO)や二酸化炭素(CO2)濃度が急速に下がっていく様子がわかります。そこで、過酸化状態にならないようにする必要があるわけで、その時この押出成形品を最終スクラップ挿入用バスケットの底に入れてドンと切っておきます。そうしますと、最後の少しの働きはこの押出成形品がしてくれるわけです。ただ、少し問題があります。
    次お願いします
    中部鋼鈑の例で申しますと、電気炉は朝に出鋼が終わりますと止まります。昼間、炉内は空っぽの状態でずっと待っていますが、その間、残熱が残ってしまいます。従って夜、再び操業開始のとき炉内温度は200〜300℃或いはそれ以上ありますから、そこにこの押出品を投入してしばらく時間が経過しますと、写真にありますように発火暴走が起こります。一種の鉄テルミット反応と言うことなのですが、かなり高速で燃焼します。これはこれで上手くいくのですが、原材料をハンドリングしているとき、もしくは袋詰めして積み上げて保管しているときうっかりすると発火してしまいます。田原工場から名古屋市内へトラックで運搬しているとき発火事故が起こったと言う失敗事例もあります。袋詰め前の製品養生時の高温化にも注意しなければいけません。特に圧力がかかると発火が生じやすくなります。このように製品化に当たっては、管理面でもギリギリ細心の注意が求められます。
    次お願いします
    この表(固形燃料の性状比較)に有りますように、この炭化物(コークス代替品)の課題のうち、ダイオキシン対策としての塩素含有量の低減は可能ですが、「可燃分の40%以上」と言う課題のクリアがなかなか困難な状況です。次のプラントができた時には50%確保は可能であると考えていますが、それでも本来の姿とは言えません。しかし、この技術も田原での操業実績を重ねる中でかなりの進歩がありました。
    次ぎ願いします
    表題でも書いてきました、この「21世紀は炭素の時代」と言う見出しは、一見いい加減だと思われるかもしれませんが、実は、日本では殆どが焼却処理と言う歴史を経て今日に至っております廃棄物を蒸し焼きにして作り出したカーボンを利用すれば非常に大きな環境負荷の低減効果があり、且つ廃棄物の再資源化も可能となるものと言えると思います。石油を向こうにおいて果たして炭素の時代が到来するかと言う疑問もあると思われますが・・・・。
    廃棄物の中でも家庭ゴミは排出量としてはもっとも多いものです。建築廃材がそれに続きます。その外、竹林のコントロール、間伐材の処理問題などもあります。そこで、これらをまとめてひとつの処理システムを作り上げればかなり巨大なものになる可能性があります。低品位のカーボンはそのまま土壌の改良剤として農地に埋め戻して利用することもできます。但し、建築廃材が出てくると、農地には使えません。
    このようなものをひっくるめて考えたとき、現時点ではやはり、今まで述べてきたようなプロセスで都市ゴミの一部を、やっと低品位のカーボンにしてそれなりの産業化への糸口をつかんだと言うところです。今後はますます、この取組と言うものは意義あるものに成るだろうと思います。
    それで、どうか60歳代からはじめたこの試みが、もっと若い年代に移転して本格的な企業化に発展してゆくことを期待して私の講演とします。
           有難うございました。
          

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